エジプト征服と身代わり王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:25 UTC 版)
「エサルハドン」の記事における「エジプト征服と身代わり王」の解説
詳細は「アッシリアのエジプト征服(英語版)」を参照 Victory stele of Esarhaddon 勝利の碑文 英訳 サムアル(英語版)で出土した「エサルハドン王の戦勝碑(英語版)」(ペルガモン博物館収蔵)は、エジプトにおけるエサルハドンの勝利を讃える、高さ3メートルを超える大きな玄武岩に彫られた石碑である。戦槌を持ち堂々たる姿勢のエサルハドンと、捕らえられたエジプトのタハルカ王(英語版)とシドンのアブディ・ミルクティ王(英語版)が首に縄をかけられてひざまずく姿を描く。 前671年の初頭、エサルハドンは再びエジプトへ向けて進軍した。 2度目のエジプト遠征のために編成された軍は、前673年の1度目の遠征でエサルハドンが動かした軍よりもかなり大規模であり、前回の問題を回避するために非常にゆっくりと進軍した。経路上、アッシリア西方の主要都市ハッラーンを通過し、この町でエサルハドンのエジプト征服が成功するであろうという預言が彼に示された。エサルハドンの死後にアッシュルバニパルに送られた手紙によれば、預言は次のようなものであった。 エサルハドンがエジプトに進軍する時、杉材の神殿がハッラーンに建てられた。そこでシン神が木柱の上で王位に就き、2つの冠が御神の頭上にあって、その正面に立つ神はヌスク(英語版)神であった。エサルハドンが入りその冠を彼の頭上に戴き、神より次のように宣言された。「そなたは前に進み、世界を征服する!」。そして彼は行き、エジプトを征服した。 この預言を受けてから3ヶ月後、エサルハドンの軍勢はエジプト軍との最初の戦闘に勝利した。しかしこの預言と初戦の勝利にも関わらず、エサルハドンは自らの身辺に不安を抱いていた。エジプト軍を撃破してから僅か11日後、彼は「身代わり王」の儀式を執り行った。これは差し迫った危険を伝える何らかの予兆から王を守り匿うことを目的とした古代アッシリアの手法であった。エサルハドンは治世の早い段階でこの儀式を執り行っていたが、この時の儀式ではエジプト侵攻の指揮を執ることができなくなった。 この「身代わり王」の儀式の中で、エサルハドンは100日間隠れ、その間、代理人(可能ならば知的障害者)が王の寝台で眠り、王冠と王の衣装を身に着け、王の食事を取った。この100日の間、隠れていた本物の王は「農夫」という別名でのみ呼ばれた。儀式の目的は、王に対する悪しき意図を身代わりの王に向かわせることで、本物の王エサルハドンの安全を守ることであった。この身代わり王は、100日が終了した時点で、何かが起きたかどうかに関わらず殺害された。 エサルハドンが恐れていた予兆がどんなものであったにせよ彼は前671年を生き延びたが、その後の2年間でこの儀式を2度執り行うことになったため、ほぼ1年間にわたってアッシリア王の義務を十分に果たすことができなくなった。この間、帝国の民政の大半は彼の王太子たち、アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって監督され、エジプトにいた軍隊は恐らく宦官長アッシュル・ナツィルによって指揮されたものと見られる。アッシリア軍はさらに2度の戦いでエジプト軍を破り、エジプトの首都メンフィスを占領・略奪することに成功した。また、アッシリア軍はテュロスのバアル1世のようなエサルハドンに対抗してエジプトと同盟を結んでいたレヴァントの属王との戦いに直面した。 エジプトのファラオ(王)タハルカは逃亡したが、エサルハドンはタハルカの妻と息子を含む家族を捉え、この王族の大半は人質としてアッシリアに送られた。新たに征服したエジプトの統治担当者として、エサルハドンに忠実な総督たちが置かれた。エジプトの征服を記念して建てられた エサルハドンの勝利の碑文(英語版)において、エサルハドンは堂々たるポーズで描かれており、その手にはこん棒を持ち、属王たちは首に縄をかけられて彼の前で跪いている。この征服の結果、多数のエジプト人がアッシリアの中核地帯に強制移住させられた。エサルハドンは勝利の碑文においてこの征服を次のように説明している(抜粋) 大いなる神々に呪われたエジプトおよびクシュの王タハルカ(の軍)に対して、イシュフプリから彼の居城メンフィスまで十五日の行程を、余は毎日休止することなく殺戮を行った。彼自身に対しても、余は五度矢の尖で打ち、癒しがたい傷を負わせた。余は彼の居城メンフィスを包囲し、坑道、破口、攻城梯子をもちいて、半日のうちに占領した。余は(メンフィス市を)略奪し、破壊し、火をかけた。彼の妃、ハレム、王太子ウシャナフル、その他の王子や王女たち、(それに)彼の財貨、馬、牛、小家畜を数えきれないほど、戦利品としてアッシリアに運んだ。余はクシュ(の勢力)をエジプトから根絶した。余に対する恭順(の確保)のために、そこ(エジプト)にだれひとり(クシュ人を)残すことはしなかった。余はエジプト全土にわたって(各地に)王、総督、長官、商港監督官、代官、属吏を新たに任命した。我が主なるアッシュルならびに(他の)大いなる神々たちのために、寄進と供物を永遠にわたって定め、余の支配に対しては、貢納と進物を年ごとに絶えることなく彼ら(エジプト人)に課した。余は我が名を刻んだ石碑を作らせ、その上に我が主アッシュル神の栄光と武勇、我が素晴らしき所業、余がいかにして我が主アッシュル神の加護のもとへ足繁く通ったか、そして我が征服の手の強さを書かせた。この世の終わりまで全ての我が敵にこれを示すため、余はこれを据え付けた[訳語疑問点]。 小林登志子は、エジプトに対するアッシリアの軍事的勝利の原因を武装の違いにあるとする。アッシリアは鉄鉱石の産地であったアルメニア山地を支配下におさめ、アッシリア軍が鉄製武器で武装していたのに対し、技術の革新に乗り遅れたエジプト軍の武装は青銅製武器が主体であったため、戦力に差がついた。
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