アッシリアにおける戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 04:05 UTC 版)
「シン・シャル・イシュクン」の記事における「アッシリアにおける戦闘」の解説
アッシリアによるバビロニア支配の終焉は、おそらくその時点ではアッシリア人は深刻に受け止めていなかった。戦闘は全てバビロニア内で行われており、その結果は新アッシリア時代におけるそれまでのアッシリアとバビロニアの衝突と同様に、未だ決定的なものではなかった。以前の反乱でもバビロニア人は時に一時的な優位を手にしており、その時点のアッシリア人にとってはナボポラッサルの成功もそれと同じく「一時的な」困難としか認識していなかった。 前616年、ナボポラッサルが初めてアッシリアの領土に入り、ユーフラテス川に沿って現在のシリアの領域に軍を進めた。彼は進撃を続け、アッシリアの都市ヒンダヌ(Hindanu)を占領すると、次いでバリフ川到達し、ガブリヌ(英語版)市近傍でアッシリア軍を撃破した。ナボポラッサルはその後北進し、遠くハブール川まで到達した。アッシリア軍はこの脅威に対応すべく速やかに再編された。アッシリアの同盟国であったエジプトのファラオ、プサムテク1世は状況が切迫したものであることを認識し、シン・シャル・イシュクンを支援するため軍を進めた。プサムテク1世は直近の数年にわたりレヴァントの小都市国家群に対する支配を確立するため遠征を行っており、また自身の帝国と東方のバビロニアおよびメディアの緩衝国としてアッシリアが存続することを望んでいた。前616年10月、エジプトとアッシリアは共同でガブリヌ市占領を狙った遠征を行ったが失敗に終わり、その後のエジプト軍はユーフラテス川西方に滞留し、限定的な支援しか提供しなかった。そしてアッシリア軍とバビロニア軍は双方撤退したが、バビロニア人がヒンダヌ市を維持し、今やユーフラテス川中流域を支配下に置いた。これはバビロニアにとって重要な戦略的勝利であり、アッシリア軍のバビロニア侵攻の可能性を排除するナボポラッサルの計画の第一歩であった。アッシリア軍と同時にナボポラッサルが撤退したことは、バビロニア軍がまだアッシリアへの総攻撃を実行する準備を整えておらず、この時点での彼らの計画はアッシリアの征服と破壊ではなくバビロニアの独立の確保にあったことを示唆している。 前615年、ナボポラッサルはティグリス河畔でアッシリア軍を大敗させ、小ザブ川まで押し戻した。これにより、アッシリアとバビロニアの間に確立されていたティグリス川中流の緩衝地帯に対するアッシリアの支配は弱まり、バビロニアはアッシリア本国に直に接する土地を支配するようになった。
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