アッシリアの支配とメディアとは? わかりやすく解説

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アッシリアの支配とメディア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:59 UTC 版)

メディア王国」の記事における「アッシリアの支配とメディア」の解説

ティグラト・ピレセル3世攻撃は前744年と前737年行われアッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市支配者たちに臣礼を取らせた。彼はイラン北西部からシリア・フェニキアへと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからはアラム人イラン高原移住させたとしている。そしてビート・ハンバン(Bit Ḫamban)とパルスアペルシア)をアッシリア併合し総督駐屯軍置いたという。 前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世在位:前722年-前705年)は前716年新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(Kišesim)を設置しメディア西部がそれに加えられた。これらの州はその後、カール・シャルキン(Kar-Šarrukin)とカール・ネルガル(Kar-Nergal)と改名されメディア支配拡大するために強化された。 この頃アッシリア北方大国であったウラルトゥの王ルサ1世アッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟試みた。この時ウラルトゥ同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前登場する(ただし、彼はマンナエ王国半独立地方的支配者として登場する)。しかし前715年始まったルサ1世によるアッシリア攻撃失敗終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリア送られた。このダイウックはヘロドトス『歴史』登場するメディア統一したデイオケス相当するという見解がある。もしもこの同定正しくヘロドトス見解信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望高めメディア諸部族推戴受けて初め統一されメディアの王となった人物である。ヘロドトスによればデイオケス首都エクバタナ建設して七重城壁張り巡らし独裁確立したとされているが、アッシリア対す敗北記録されていない新たに設置されアッシリア東方属州では反乱絶えず、サルゴン2世は前708年再度遠征行ったものの、メディア対す安定的な支配確立することはできなかった。キンメリア人スキタイ人侵入受けてアッシリア北部国境不安定化すると、アッシリア王エサルハドン在位:前681年-前669年)はこの問題対処するべくイラン北西部地方への遠征行い、前679年から前677年にかけてイシュパカイア(Išpakaia)というリーダー率いられマンナエ人スキタイ人打ち破った。この時の遠征ではメディア奥深くまで攻撃を受け、メディア首長2人家族もろともアッシリアへと連行された。ダイウック、あるいはデイオケス業績どのように評価するかどうかは別として、当時メディア人が多く首長持っていたことはエサルハドン記録によってわかる。エサルハドンによるこのメディア攻撃直後パルタック(Partakku)のウピス(Uppis)、パルトゥッカ(Partukka)のザナサナ(Zanasana)、ウルカザバルヌ(Urukazabarnu)のラマタイア(Ramataia)という3人のメディア首長隣国との戦いのためにエサルハドン支援求めている。このうちラマタイアは前672年エサルハドン王太子アッシュルバニパル対す忠誠条約いわゆるエサルハドン王位継承誓約)を臣下属国君主たちに結ばせた際、その調印者一人として登場している。 一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリア反乱起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリア記録によればこの時反乱起こしたのはキシェシム州(Kišesim)のサグバト(Sagbat)にある都市カール・カッシ(Kār-kašši)の「市長city lord)」カシュタリティ(Kaštariti)、サパルダ(Saparda)の支配者ドゥサンナ(Dusanna)、メディアの「市長」マミティアルシュ(Mamitiaršu)の3名で、特にカシュタリティが首謀者みなされている。この反乱成功したものと見られ、前669年この年エサルハドン死亡した)の文書ではメディアウラルトゥマンナエなどと共に独立した勢力として言及されている。アッシリア人彼に市長」以上の称号付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力形成した可能性がある。この頃のカシュタリティによるアッシリアへの攻撃はもはや略奪的な襲撃限られず、アッシリア要塞対す包囲が行われるようになっていた。これはメディア人たちがアッシリアウラルトゥ、あるいはエラムによる訓練受けた経験があったことを示すかもしれない。 同じ時期マンナエ人アッシリア北方勢力拡大したが、アッシリア王となったアッシュルバニパルマンナエ攻撃し制圧したマンナエ人その後メディア人の勢力拡大恐れアッシリアの滅亡までアッシリア同盟国として行動したアッシリア記録におけるメディアについて最後情報は前658年頃、アッシリア背いたメディア首長ビリシャトリ(Birišatri)を捕らえたというものである

※この「アッシリアの支配とメディア」の解説は、「メディア王国」の解説の一部です。
「アッシリアの支配とメディア」を含む「メディア王国」の記事については、「メディア王国」の概要を参照ください。

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