新エラム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 13:52 UTC 版)
紀元前1100年のネブカドネザル1世の侵攻から、紀元前539年にアケメネス朝の支配下に入るまでの時代であり、研究においては更に3期に細分される。アッシリアとバビロニアの争いにバビロニアを助ける形でたびたび介入したが、最後はアッシリア王アッシュールバニパルの攻撃を受けてスサを破壊され、大国としてのエラムの歴史は終わりを告げた。更にその後、アケメネス朝の支配下に入り、以後エラム人による国家が成立することはなくなった。
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新エラム時代
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こういった時代にようやく終止符が打たれ、エラムに新たな時代が訪れるのは紀元前8世紀頃のことである。この頃新たにフンバンタラ朝(ロシア語版) (Humban-Tahrid dynasty) が成立して、一応の安定が達成された。当時急激に拡大していたアッシリアに対抗するために、エラムはバビロニアを熱心に支援した。バビロニアは紀元前729年にティグラト・ピレセル3世によって征服されていたが、その後エラムの支援の元でメロダク・バルアダン2世がアッシリアに反乱を起こし自立していた。アッシリア王サルゴン2世はメロダク・バルアダン2世を攻撃して再びバビロニアを征服したが、この時敗走したメロダク・バルアダン2世はエラムに逃げ込み、エラム人は彼を匿った。そして、紀元前703年頃、再び彼をバビロニア王に付けてアッシリアから離反させることを試み一時成功した。だが、センナケリブ王の遠征によってバビロニアは再併合された。 しかし尚もエラムはバビロニアの反乱勢力を支援して介入を続けた。新たに王位についたフンバン・ニメナ(ロシア語版)は紀元前694年には、ネルガル・ウシェズィプ(英語版)率いるバビロニアの反乱を支援して、アッシリアの王子、アッシュール・ナディン・シュミを捕縛することに成功し、再びバビロニアを独立させた。これは更なるセンナケリブ王の遠征(ハルールの戦い(英語版))を招き、一時的にはアッシリア軍に対抗したものの、最終的にバビロニアはアッシリアの支配下に入りバビロニアに対するエラムの影響力確保は失敗した。 詳細は「アッシリアによるエラム攻略戦」を参照 その後もエラムとアッシリアは、バビロニアを巡って争いを続けた。アッシリア王アッシュールバニパルが、兄弟のバビロニア王シャマシュ・シュム・ウキンと兄弟戦争を戦った際には、シャマシュ・シュム・ウキンを支援して再びバビロニアを離反させることを狙った。しかしこの戦いでシャマシュ・シュム・ウキンは敗死し、アッシュールバニパルはエラムに対して本格的な攻撃に乗り出した。エラム王テウマン(ロシア語版)はテュル・テュバの戦い(ロシア語版)でアッシリア軍に敗北し、前647年のスーサの戦いでは多大な被害を受けた。これによって大国としてのエラムの歴史も終わりを告げた。テウマンの後継者フンマ・ハルダシュ3世(ロシア語版)は尚もアッシリアに対抗を続けたが、紀元前640年にスサはアッシリアに占領されるに至った。 しかしながら、アッシリアは国内の諸部族の抵抗に悩まされており、スサ占領も長くは続かず、しばらくしてエラム王国は復活した。ただ最早往時の権勢を示すことはなく、イラン高原の殆どはメディア王国の支配下に置かれ、エラム王国の支配地域はスサを中心とするスシアナ地方に限られた。紀元前539年にスサはキュロス大王率いるアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、ここにエラム王国は歴史から姿を消した。しかし、イラン高原において最も高い文化を誇った集団の一つであったエラムの諸制度は、その後もアケメネス朝時代においても受け継がれた。
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