新オスマン人の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:37 UTC 版)
「アブデュルアズィズ」の記事における「新オスマン人の台頭」の解説
アブデュルアズィズは西洋化そのものには積極的であったが、自らの権力に制限を加えることになる憲法や議会の創設には否定的であったため、「新オスマン人(英語版)」と呼ばれる若い知識人を中心に反専制運動が起こり、1870年頃からは、都市部では保守的な神学生までアブデュルアズィズ退位を求めるデモに参加するほどであった。 新オスマン人は愛国的な言論活動を行っており、新聞を通じて急激にその思想が広がりカフェなどで言論が形成されていった。例えば、ナムク・ケマルの「諸情勢の翻訳者」や「世論の注釈」などの出版物は世論の形成に確実に貢献していた。しかしアブデュルアズィズから見てみればナショナリズムや愛国心を煽ることは帝国の解体に繋がる危険な思想でしかなく、1860年代後半からは新オスマン人に対して言論弾圧を行い始めた。代表的な事件は1872年にナムク・ケマルの「祖国またはシストリア」という戯曲を発禁処分とし、著者もキプロスに追放された事件である。 「祖国またはシストリア」はクリミア戦争中、国境防衛をしていた勇敢な青年将校がシストリア要塞でロシア軍に対抗したのを題材にした作品であったがそれすらもスルタンは危険と見なした。
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