新エンジン開発と提携の模索、経営破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/26 03:54 UTC 版)
「ライレー」の記事における「新エンジン開発と提携の模索、経営破綻」の解説
レース界での華やかな戦績とは裏腹に、ライレーの経営は年々厳しくなっていた。中堅中級車メーカーという企業の位置づけと規模に比べ、ボディまで自社系列生産、かつ多品種少量生産を続けてきた非効率さが経営を悪化させた。 主力となるべきモデルの「ナイン」は税制によって1100ccという排気量束縛を受け、1930年代に入ると、オプション装備の追加に伴う重量増加にエンジン出力向上が追いつかず、性能低下に悩まされるようになっていた。そしてこの頃、同じコヴェントリーの新興メーカーであるジャガーが、量産車のスタンダードのパワーユニットをベースにスタイリッシュな低価格中級車を送り出し、直接の脅威となってきた。 打開策の一つとしてエンジン種類の集約が検討され、1934-35年に社内の技術者レイモンド・ヒュー・ローズ(Raymond Hugh Rose)の手で新型エンジンが開発された。この新型エンジンは、直列4気筒3ベアリングの1.5リッターと2.5リッターである。後者は、当時のイギリスでは珍しい大排気量4気筒で「ビッグ・フォー」と呼ばれた。パーシー・ライレー流のユニークなヘミヘッドツインカムOHV機構は、ローズの新エンジンにも継承された。 イギリスでは1930年代前半まで中級車向けエンジンには低振動の直列6気筒がもてはやされ、ライレーも含めて1300~1700ccクラスにも6気筒が珍しくなかったが、1930年代中期になるとエンジンのフローティング・マウントが実用となり、設計と搭載方法さえ良ければ4気筒エンジンでも相当に振動を抑えられるようになってきていた。これを背景に、パーシーが設計した在来6気筒エンジンや、「オートヴィア」用エンジンとして開発されていたV型8気筒エンジン(ナイン用4気筒2基の組み合わせ設計)に代わるものとして、ローズは4気筒を採用したのである。なおローズはほどなくライレーを退社し、独立系の小規模中級車メーカーであるリー・フランシスに移籍、ライレー用とほとんど同じレイアウトのエンジンを設計した。 1937年、経営困難に陥っていたライレーは他社との提携を考えるようになる。1932年のモータースポーツでの成功のピークでワークスとしての活動を中止していたものの、ブルックランズ系のERAへのエンジン供給は続けていた。高性能小型車メーカーとしての名声は、ライレーを支える数少ないプラス材料だった。 当時、ドイツ・ミュンヘンのBMWから英国で活動するための提携の申し出を受けたが、ライレーは自国の会社との提携を要望しており、同じコヴェントリーのトライアンフ・モーター・カンパニーを提携先として適切と考えていた。しかしトライアンフと交渉を進めるにも、すでに経営の行き詰まりが進んで手遅れの状態で、1938年2月には経営破綻、ライレー(コヴェントリー)とオートヴィアは管財人の手に委ねられた。レース界の強豪でもあったコヴェントリーの名門メーカーは、ほどなく、大手の量産車メーカーであるモーリス社を核としたナッフィールドの傘下となった。 一方、ライレー・エンジン・カンパニーはPRモータースと社名を変更(PRはパーシー・ライレーの頭文字である)。エンジンと部品の量産を続けた。しかしながらPRモータース以外のライレーの会社はBMCに吸収されることになる。パーシーは1941年に死去した。 その後、PRモータースはトランスミッション部品の製造も始め、ニューエイジ・トランスミッションズとして現在も操業をつづけている。
※この「新エンジン開発と提携の模索、経営破綻」の解説は、「ライレー」の解説の一部です。
「新エンジン開発と提携の模索、経営破綻」を含む「ライレー」の記事については、「ライレー」の概要を参照ください。
- 新エンジン開発と提携の模索、経営破綻のページへのリンク