ナッフィールド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/26 03:54 UTC 版)
ライレー(コヴェントリー)とオートヴィアはウィリアム・モーリス(初代ナッフィールド子爵)に143,000ポンドで買収されたが、ビクター・ライレーが引き続き社の運営を任される。これはすぐにウィリアム・モーリスの所有していたモーリス・モーター・カンパニーに1ポンドで売却され、以降モーリス・グループ企業群はナッフィールド・オーガニゼーション(Nuffield Organisation )とよばれるようになる。 ナッフィールドは会社を早期に黒字化することを急ぎ、採算性に乏しいオートヴィア事業は停止された。経営破綻直前当時、ライレーは量産エンジンをR.H.ローズの設計した新型4気筒2種(1.5Lと「ビッグフォー」2.5L)に集約し、これを搭載したスマートな新型車を開発していたが、高性能な新型エンジンに半自動トランスミッションを装備し、流線型ディテールを取り入れたスマートなニューモデル「ビッグ・フォー」の製造台数は僅かだった。エンジン以外の部品をコストの観点からモーリスと共通化し、「従来のライレーのスポーティなイメージとは遠い、魅力に欠けるスタイルのモデル」と評された「12」「16」が、1940年代初頭の戦時体制移行による民生用車両生産中止まで製作された。 第二次世界大戦が終わると、ライレー・モータースが再興され、1945年には戦前以来の4気筒エンジンを使って、いち早く戦後型のニューモデル「RMシリーズ」を発表した。ボディ・シャーシとも専用設計され、戦前最盛期のライレーにも比肩する内容を備えたモデルである。RMAでは1.5Lエンジンを、RMBではビッグフォー2.5を搭載した。このRMシリーズは、『すてきなドライブ (Magnificent Motoring)』というキャッチコピーのもと、ナッフィールドの上級車として販売された。伝統的な木骨ボディを用いたスマートで上質な中級車だったが、画期的だったのはフロントサスペンションがトーションバーとウィッシュボーンによる独立懸架で、ステアリングもラック&ピニオンになるなど近代化されていた点であった。これは1934年発表のシトロエン・トラクシオン・アバンの影響を受けたものである。 ビクター・ライレーは1947年にナッフィールドを去った。コヴェントリーのライレー工場は生産を停止し、ライレー車の生産は同じナッフィールド系であるMGのアビントン工場(Abingdon )に統合された。 ナッフィールドのブランドは、ゼネラル・モーターズ式のフルライン方式に再構成され、モーリスが低価格車、MGがスポーツカー、ウーズレーが高級車という位置づけとなった。しかしバンデン・プラとライレーも最高級の位置づけで重複し、しかもナッフィールドは既存ユーザーの離反を恐れて各ブランドを維持し続けたため、結果としてブランド戦略に混乱をきたした。
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