スエズ動乱とミニマムカー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 05:05 UTC 版)
「ミニ (BMC)」の記事における「スエズ動乱とミニマムカー」の解説
第二次世界大戦前から在籍していたナッフィールド・オーガニゼーションが、ライバルであるオースチンと合併してBMCになると、イシゴニスは社内の環境に不満を感じ一時的に高級車メーカーのアルヴィスに移籍した。イシゴニスは同社で高級スポーツカーの開発に取り組んだが、結局その量産化は頓挫し、BMCの経営責任者であるサー・レナード・ロードの招きを機に、1955年にBMCに戻ってきた。 この当時の量産型BMC車は、小型車から上級車に至るまで合併前のナッフィールド系とオースチン系のモデルが並立している過渡期にあったが、いずれにしてもやや旧弊な設計のモデルが主流を占めていた。イシゴニスは早速、それらを刷新するためのニューモデル開発に取り組み始めた。 ところが1956年9月、スエズ動乱が中東で勃発し、国際的に石油価格が高騰したことが開発環境の大きな転機となった。 当時、中東の油田依存率が高かった西ヨーロッパ諸国は時ならぬオイルショックに陥った。イギリスの大衆層は排気量1,000 cc 前後のまともな乗用車を維持することが困難になり、当時、西ドイツなどで生産されていた200 - 400 cc の、バブルカーと呼ばれる2 - 3人乗りミニカーを購入するようになった。それらは確かに経済的ではあったが、単気筒もしくは2気筒の空冷エンジンを搭載したけたたましい乗り物で、イギリスの税制では節税になる三輪自動車も含まれ、居住性や操縦性といった本格的な自動車に求められるような性能を欠いていた。 大衆が粗末なバブルカー購入に走るのを憂いたサー・レナード・ロードは、対抗のため自社開発陣に「極めて経済的な4人乗り小型車」の早急な開発を命じ、イシゴニス率いるBMC開発チームは一般的な小型車でなく、既存の自社モデル(オースチン・A30やモーリス・マイナーといった、1,000 cc 未満の小型車)よりもさらにコンパクトなニューモデルの設計を再考することになった。
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