スエズ戦争後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:21 UTC 版)
「ガマール・アブドゥル=ナーセル」の記事における「スエズ戦争後」の解説
1952年にエジプト政府はアスワン・ハイ・ダムの建設計画を立てた。このダムはイギリスが建設を主導する予定であったが、エジプト革命で建設が中止されていた。ナセルはアスワン・ハイ・ダムの建設を再開し、建設費用獲得のために1956年7月26日、スエズ運河の国有化を宣言した。これにはイギリスやフランスが反発、スエズ戦争(第二次中東戦争)が勃発し、戦闘自体は負け続きだったが当時の情勢と運と味方につけ、巧妙に立ち回った結果、国際世論を味方につけて戦争に勝利することに成功した。ナセルは英仏軍を退け、国有化承認を勝ち取る。 スエズ戦争の勝利によって国際的威信を高めたナセルは、アラブの大同団結を目指す。イェフディット・ロネンが「人格と政治:カダフィ、ナセル、サダト、ムバラク(1969–2000)」について書いた記事によると、ナセルは1952年に権力を握り、アラブ国民の父であり、アラブの指導者と見なされていた。エジプトを西洋帝国主義から解放した。 1958年2月、エジプトとシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し、初代大統領に就任した。また同年、ソビエト連邦がアスワン・ハイ・ダムの建設援助を申し出てきたことを契機にナセルはソ連邦英雄、レーニン勲章を受章するほどの親ソ路線に傾斜していく。 ところが1962年、アラブ連合共和国はシリアの脱退によって事実上崩壊した。ナセルは引き続きエジプトの国号を「アラブ連合共和国」としたが、連合が復活することはついになかった。この頃からナーセルの威信に揺らぎが見え始める。笑いの政治:エジプトの政治的ジョークにおけるナセル、サダト、ムバレク」に関する記事を書いたサメルS.シェハタによると、「新しい政権によって、組織化する権利を含む議会の政治と政治的自由が終わりました。政党、言論と報道の自由 」特に1967年、エジプトはイスラエルとの第三次中東戦争(六日戦争)で惨敗し、国土の東部を占めるシナイ半島がイスラエルに占領される事態となり、ナセルは責任を取って辞任を宣言するまでに追い込まれた。しかし、国民が辞任を受け入れず、大統領の地位に留まることを求めたためにナセルは失脚を免れた。その後もイスラエルに対して強硬策を続け、「承認しない」・「交渉しない」・「和平しない」・「パレスチナ人の権利回復」の原則を求めつづける(消耗戦争)。 一方で、ナセルは「反イスラエル」の立場から逃亡中のナチス戦犯を多数匿ったとされる。その大半がエジプト軍・治安機関の養成や反ユダヤ主義プロパガンダの作成に当たった。例えば、エジプト情報省で反イスラエル宣伝を担当した元ナチ党の宣伝活動家ヨハン・フォン・レールス(英語版)(1965年に死去)、エジプト国家治安局で働いたゲシュタポ幹部のレオポルド・グライム(英語版)がいる。1960年代、イスラエル政府はエジプトがドイツ国防軍の科学技術を手に入れて、弾道ミサイルを開発することを恐れ、元ナチスの科学者のふりをしたスパイを送りこむほどだった。しかしながらナセルがナチスの不倶戴天の敵、ソ連と深い関係にあったため、エジプト政府による元ナチに対する支援は益々下火になっていった。
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