スエズ運河問題まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)
「オスマン帝国領エジプト」の記事における「スエズ運河問題まで」の解説
1848年、健康上の問題のため政務を引いたムハンマド・アリーに替わって息子のイブラーヒーム・パシャ(在位:1848年)が総督位を継いだ。彼は十分な実績を持った政治家・軍人であったが、同年中に結核のために死去し、別の息子アフマド・トゥーソンの子、つまりムハンマド・アリーの孫アッバース・パシャ(在位:在位:1848年-1854年)が跡を継いだ。前任者たちと異なり欧州式の近代化政策や外国人顧問に疑問を持っていたアッバース・パシャは近代化政策を担う諸機関や学校の閉鎖、外国人顧問の追放を実施した。 当時オスマン帝国本国ではタンジマートと呼ばれる政治・軍事面での改革が図っていた。これは第二次エジプト・トルコ戦争の劣勢を挽回するため、西欧諸国の支持を取り付けるべくオスマン帝国が約束した「改革」でもあり、1839年にその端緒となるギュルハネ勅令が発布されていた。オスマン帝国は「帝国領土」たるエジプトにもこの勅令に基づいて作られた新たな帝国法の適用を要求した。同じ頃、イギリスはエジプトを縦断する鉄道の建設許可を要求しており、アッバース・パシャはフランスとも対立していたが、エジプトがこれら全てを敵に回し続けるのは不可能であった。 タンジマートの導入がエジプトの特殊な地位を脅かす可能性を危惧したアッバース・パシャは、1851年にフランスの猛反対を押し切ってイギリスにアレクサンドリア-カイロ間の鉄道敷設許可を与え、これによって得たイギリスの支持を背景にしてオスマン帝国から譲歩を引き出し、エジプトの「地位」に配慮した形に修正した上でのタンジマート導入に漕ぎ着けた。一方で1853年に発生したクリミア戦争においては15,000人の軍をオスマン帝国に提供し、帝国との関係改善も図られた。 しかし、ムハンマド・アリー朝の「エジプト総督」アッバース・パシャにとって究極的にはエジプトは「独立国」となるべきであった。これは以降の総督たちにとっても政治的立場の違いを超えた共通した目標であり続ける。アッバース・パシャはその第一段階としてワーリー(総督)の称号をアズィーズ、または「王」に変更することを要求した。これは実現することなく、1854年にアッバース・パシャは何者かによって殺害された。 続くサイード・パシャ(在位:1854年-1863年)は行政機関・軍の人事におけるアラブ人への差別待遇を軽減し、高級士官としての登用を始めるとともに、専売制の廃止、奴隷制の廃止と奴隷貿易の禁止、現物税の廃止、私的土地所有権の確立、行政官による鞭の使用の禁止などを定め、諸制度の近代化を図った。これらの中にはほとんど成果を挙げなかったものもあるが、一連の改革によって彼は一般に開明的な君主と評価され、またこの時代に登用されたアラブ人高級士官はその後のエジプトに大きな影響を及ぼすことになる。 サイード・パシャもまたエジプトの独立を志向し、また当時急速に進んでいたヨーロッパ諸国によるアフリカ大陸の分割にも備えようとした。サイードはフランス人から教育を受けたことも手伝い親仏的傾向が強く、イギリスを牽制するためにフランスへの接近を図った。またエジプト国家の存在を対外的に認知させるべく、アッバース・パシャの時代に派遣されていたクリミア戦争への派兵規模を増強し、1863年にはフランス皇帝ナポレオン3世の要請に応じてスーダン兵500名をメキシコに派兵した。 そしてやはり最終的なエジプトの独立達成を目指して彼が実施したのが、熱心に運河建設を勧めていたフランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスへのスエズ運河建設許可であった。1854年の即位直後にスエズ運河建設許可が出されたことにはサイード・パシャが個人的にレセップスと親しかったことが大きく影響しているが、その目的自体はエジプトの独立達成と不可分の関係にあった。運河の建設がフランスのエジプト独立支持に繋がるであろうと考えられ、その経済的効果はエジプトの富と力を増強させオスマン帝国による統制からエジプトが脱却することを支えると考えられた。さらにスエズ運河が重要な通商路として機能し始めてしまえば、その規則正しい運用のために世襲支配を保証せざるをえないであろうとも予想された。スエズ運河の建設にはイギリスとオスマン帝国政府の強硬な反対があったが、レセップスの粘り強い努力もあって建設が開始された。しかし、運河建設はエジプトにとって著しく不利な条件で進められた。スエズ運河の所有権を99年間保持することになるスエズ運河会社の名目的な本社はアレクサンドリアに置かれたが、実際の経営はパリで行われ、理事会のメンバーも半数以上がフランス人であった。同社の株式は当初、16パーセントをエジプト政府が引き受けることになっていたが、イギリスの介入もあって販売が振るわず、最終的に44.4パーセントをエジプトが引き受けることになった。にもかかわらず、運河会社の約款には同一株主の投票権が10票までと定められていたため、エジプト政府の経営に対する発言権は極めて限定的なものとなった。建設費用の大半がエジプト側の負担となり、建造のために過酷な強制労働も行われ、最終的には巨額の対外債務が残された。結果的に当初の意図とは裏腹に、スエズ運河建設はエジプトの植民地化の起点となったと考えられている。その成果として得られたものは、フランスとの間の事実上の外交の確立のみであった。 1863年1月、スエズ運河完成を見ることなくサイード・パシャは死に、イブラーヒーム・パシャの息子イスマーイール・パシャが後継者となった。イスマーイール・パシャの即位を機会として、オスマン帝国はエジプトの特権的地位の解消を目論んだ。イスタンブルの新聞はイスマーイール・パシャの総督叙任を下級官僚の発令と並べて公表し、イスマーイール・パシャに屈辱を与えた。イギリスもこの機会に運河建設を中止に追い込むべく工作を続けた。 イスマーイール・パシャはオスマン帝国とイギリスがいずれもエジプトの自治権を縮小しようとしていることを把握しており、フランスの好意を期待してスエズ運河建設を促進する協定を相次いでフランスと締結するとともにサイード・パシャが約束した運河会社への出資義務を履行することを約束した。これはイギリスにとって受け入れがたい事態の進展であり、一総督に過ぎないイスマーイール・パシャが外国との協定を締結する権利がないことを主張して激しく介入した。もはやエジプトに実質的な支配権を行使する能力を持たないオスマン帝国は、エジプト「領有」を継続するためにイギリスの姿勢に同調した。スルターン・アブデュルアズィズ(在位:1861年-1876年)は1517年のセリム1世以来となるスルターンのエジプト巡幸を行い、スルターンの威光を示してエジプトにおけるスルターンへの忠誠心を喚起し、イスマーイール・パシャの地位を動揺させることを期待した。しかし、現実的に彼のエジプト行きが、君主による領地巡回ではなく「賓客」の訪問であることは誰の目にも明らかであり、むしろイスマーイール・パシャの立ち位置を再確認する結果に終わった。
※この「スエズ運河問題まで」の解説は、「オスマン帝国領エジプト」の解説の一部です。
「スエズ運河問題まで」を含む「オスマン帝国領エジプト」の記事については、「オスマン帝国領エジプト」の概要を参照ください。
- スエズ運河問題までのページへのリンク