スエズ運河国有化とアラブ民族主義の隆盛
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「エジプトの歴史」の記事における「スエズ運河国有化とアラブ民族主義の隆盛」の解説
「ガマール・アブドゥル=ナーセル」および「第二次中東戦争」も参照 自由将校団は王制打倒では一致していたものの、もともとその統治は暫定的なものとされ、今後の展望について統一された見解を有していなかった。ナギーブを首班とする革命評議会は政権獲得後、パシャやベイなどのオスマン帝国時代以来の称号の廃止、土地の所有上限面積を200フェッダン(1フェッダンはおよそ4200平方メートル)とする農地法の制定、農地法の規定を超える大地主の所有地の強制買い上げと零細農民への分配などの農地改革、小作料の大幅な引き下げなどを実施した。だが、ワフド党をはじめ既存の政党や左翼勢力と方針を統一させることができず、自由将校団はムスリム同胞団を例外として既成政党を解散させ「解放機構」(後に国民連合、次いでアラブ社会主義連合と改称)と呼ばれる統一組織に統合した。同時に軍上級将校の人事一新、暫定憲法の制定も行いナギーブを大統領として、王制時代の体制を一新した。 その後、自由将校団内でも、軍の政治関与を排し議会制民主主義による統治を目指したナギーブと軍主導の急進的改革を主張するナーセルが対立した。元々ナギーブの指導は自由将校団内では名目的なものに過ぎなかったが、以前からの個人的人気に加え、表向きの首班として国民的支持を獲得しており、実権を握るナーセルらにとの軋轢も増していた。1954年2月末から3月にかけて、ナーセルはナギーブを大統領職から解任することを宣言したが、世論の強硬な反対を受け撤回に追い込まれた。しかし、1954年10月、ナーセルは自分が代表を務めたイギリスとの交渉でイギリス軍の完全撤退の合意を獲得することに成功し、その祝賀集会で発生したナーセル暗殺未遂事件の対処にも成功したことで圧倒的な人気を獲得した。また暗殺の実行犯がイギリス軍撤退の条件に不満を持つムスリム同胞団の団員であったため、ムスリム同胞団に対して容赦ない弾圧が加えられた。さらにナギーブは暗殺事件に関与したとして大統領職を追われ、自宅軟禁下に置かれた。こうしてナーセル主導権を握り、1956年6月の国民投票(エジプト史上初めて女性参政権が認められた選挙でもあった)によって99.9パーセントの支持を受けたとしてナーセルが大統領に就任した。 当時の世界情勢は既にアメリカを中心とする西側諸国とソヴィエト連邦を中心とする東側諸国の冷戦構造下にあった。アメリカ・イギリスは対ソ封じ込めの一環として1955年にイギリス、トルコ、パキスタン、イラン、そしてイラクによる集団防衛体制(バグダード条約機構)を組織した。ナーセルはこれをヨーロッパによる中東・アラブ世界に対する新たな帝国主義体制と見なし、アラブ諸国中から最初に参加を表明したイラクに対し強い批判を展開した。さらにバグダード条約機構が加盟交渉を進めていたシリアやヨルダンなどに働きかけてこれを阻止するなどしたため、西側との関係が悪化した。同時期にエジプトとアメリカの関係悪化に付け込んだイスラエルがエジプトに武力攻撃と破壊活動を行い、1955年にはガザで大きな打撃を受けた。 このため国防体制の強化・軍事力増強が急務となったが、アメリカからの武器支援を得られる見込みが立たなかったため、ナーセルは独自の道を模索した。大統領就任に先立つ1955年、バンドン会議(アジア・アフリカ会議)に出席して新興国のリーダーとしての存在を誇示するとともに、東側のチェコスロバキアからの武器購入(事実上のソ連からの武器購入)に合意し、中華人民共和国を承認した。これに反発したアメリカは、エジプトが建設を進めていたアスワン・ハイ・ダムの建設資金融資を撤回した。バグダード条約機構の問題、イスラエルとの問題、武器購入、そしてダム建設資金の問題は相互に関連しながら同時並行的に進んだ。そしてアスワン・ハイ・ダム建設資金融資停止はアメリカにとってエジプトに対して教訓を垂れる意図で実行されたものであった。 これに対しナーセルは1956年7月にスエズ運河国有化を宣言し、西側に従属する意図がないことを示した。スエズ運河はこの時もなお経済的にも政治的にも象徴的かつ重要な要衝であった。経済面では当時ヨーロッパで消費される石油の3分の2がこの運河を通過して運ばれており、政治的にはエジプトに残されていた最後の植民地支配の残滓であった。ナーセルはこれを国有化することでアメリカ・イギリスに挑戦するとともに、年間1億ドル(当時)とも試算されたその収益をアスワン・ハイ・ダムの建設資金に充てようとした。アラブ諸国の民衆はナーセルの決定に快哉を叫んだが、西側諸国は大きな衝撃を受け、エジプト資産を凍結した。 スエズ運河に直接権利を持っていたのはイギリスとフランスであった。既にインドをはじめとした主要な植民地を喪失しつつあったイギリスと、同じくインドシナ戦争で苦戦を強いられていたフランスは、植民地帝国の凋落を決定的にするものと見て武力介入を検討した。両国ではナーセルをヒトラーの再来と見なし、スエズ運河問題での妥協はヒトラーに対する宥和政策の轍を踏むものという議論が盛んに行われた。エジプトの強大化を脅威と見なすイスラエルがこれに同調した。3国は秘密裏の交渉によってエジプト攻撃を決定し、1956年10月29日シナイ半島にイスラエル軍が侵攻した。イギリス・フランス両国はイスラエルとエジプトに対して即座の戦闘停止を要求し、エジプトがそれに応じなかったという口実でエジプトへの空爆を開始した。こうして始まった戦いは第二次中東戦争(スエズ動乱、スエズ戦争)と呼ばれる。エジプトは軍事的には対抗不能であったが、この戦争が謀略によるものであることは誰の目にも明らかであり、全世界的な批判がイギリスとフランスに対して向けられた。特にこれがアラブ諸国を西側から遠ざけることを懸念したアメリカ大統領ドワイト・アイゼンハワーが、事前通知を得ていなかったことの怒りも手伝い、ソヴィエト連邦とともにイギリス・フランス・イスラエルに対して撤兵を要求したことは各国に衝撃を与えた。 3国は撤退に応じざるを得ず、この動乱は中東におけるイギリス・フランスの植民地帝国の終焉を象徴する事件となった。エジプトは軍事的には大きな打撃を受けたものの政治的勝利を達成し、スエズ運河の「回収」という成果を得た。これによってナーセルはヨーロッパの大国と戦った英雄としてアラブ諸国の人々に熱狂をもたらした。ナーセルを熱狂的に信奉するナーセル主義者が各国に登場し、アラブ民族主義者と同調してアラブ統一を目指す動きが活発化していった。
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