スエズ運河とアビシニア出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「スエズ運河とアビシニア出兵」の解説
テオドロス2世は中央集権化しての近代化されたエチオピア国家を目標に、ラス(諸侯)の力を削ぐために世襲を禁じ、皇帝による任命制とした。さらには常備軍を創設して軍隊の質の向上と、軍事力の集中を目指し、道路などのインフラの整備にも力を注いだ。しかし、これらの政策は諸侯のみならず帝室内部からも強い反発を招き、中央集権化ではなく、結束の弱体化に繋がった。また、テオドロスはこれらの苦境を乗り切り、先進の知識を導入するため海外からの支援をイギリスなどに頼んだが、テオドロスの対イスラムを主軸にした外交は、すでにオスマン帝国の弱体化によってヨーロッパの興味を引くものではなくなっていた。むしろ、イギリスの興味は1869年の開業を控えたスエズ運河と、その権益上抑えておかなければならないアフリカの角にあり、この地域へのフランス、イタリアの干渉に注意を払っていた。テオドロス2世は改革の行き詰まりに焦りを覚え、幾度もイギリスに向けて国書を送るが全て無視されて、ついにイギリスへの強硬策に出る。エチオピアに在留していた13人のイギリス人を捕らえ、軟禁状態に置いたのだった。これに対するイギリスの返答は、数千人規模のインド兵、44頭の象、大砲を輸送しての1868年のエチオピアへの大攻勢(英語版)だった。イギリスの大動員は、アフリカ東部に対してどれだけの兵力を投入できるかという西欧各国に対するデモンストレーションの意味合いが強く、その対象となったテオドロス2世は対抗するための兵力を揃えることはできなかった。これは、改革が諸侯の不評を買ったためであり、ティグレの勢力もイギリス軍に味方した。結果、テオドロスはマグダラの戦い(英語版)において、イギリス軍の死者2人に対し、死者800人という一方的な敗北を喫する。その敗戦を知ったテオドロス2世は、マグダラの陥落が免れ得ないものと悟ると、1868年4月13日、自ら死を選んだ。エチオピア皇帝を自死に追い込んだイギリス軍は、当初の目的通りに捕虜を解放すると、戦後の混乱を避けるために全軍を引き上げた。テオドロス2世亡き後のエチオピアには、ティグレのカッサ(テオドロス2世と同名)と、捕虜となりながらもテオドロス2世に気に入られて教育を受けたショワ王メネリク2世が残されており、有力者2人の後継者争いが起こることは予測できることだった。イギリス政府は外交官のスタンレーを通じ「テオドロスが去った後のアビシニア(エチオピア)の将来には関わらないし、たとえ内乱に陥っても関係のないこと」と以後のエチオピアへの関わりを放棄した。
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