アッシュルバニパルとの同一人物説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 02:35 UTC 版)
「カンダラヌ」の記事における「アッシュルバニパルとの同一人物説」の解説
伝統的に、アッシュルバニパルの治世最後の年を前627年であるとする想定がされてきた。これは1世紀近く後に、新バビロニア時代の王ナボニドゥスの母親がハッラーン市に作らせた碑文の記録に基づいている。アッシュルバニパルが存命して王として統治していることを証明する最後の同時代史料は前631年にニップル市で作成された契約書である。アッシュルバニパルの後継者アッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの証明された治世期間と整合させるため、一般的にアッシュルバニパルは前631年に死去したかあるいは退位または追放されたとされている。そして通常は前631年に死亡したとされる。もし、アッシュルバニパルの治世が前627年まで続いていたとすると、後継者であるアッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの碑文がバビロンに存在していることが説明不能となる。バビロン市は前626年にナボポラッサルによって占領され、その後二度とアッシリアの手に戻ることがなかった。 アッシュルバニパルの治世期間について、ハッラーンの碑文に基づく42年間という数字と、より史実性の高い38年間との食い違いを説明するため、かつて有力だった説として、例えばポーランドの歴史学者ステファン・ザワドスキ(英語版)がその著書『The Fall of Assyria』(アッシリアの滅亡)(1988年)で擁している、アッシュルバニパルとカンダラヌは同一人物であり、「カンダラヌ」は単にバビロンにおける即位名であったとするものがある。これはいくつかの理由からあり得ないものと考えられている。それまでのアッシリア王で、バビロンにおいて別名を使用していた人物は知られていない。また、バビロニアで発見された碑文においても、アッシュルバニパルとカンダラヌの在位期間は異なっている。アッシュルバニパルの治世は彼が通年を通して王であった最初の年(前668年)を起点として数えられ、カンダラヌの治世はやはり彼が通年を通して王であった最初の年(前647年)を起点として数えられている。バビロンを個人として統治した全てのアッシリア王が自身の碑文において「バビロンの王」という称号を用いているが、アッシュルバニパルの碑文においては前648年以降のものでさえこの称号は使用されていない。また、既に述べたように、カンダラヌという名前は何らかの身体障害を示す名前である可能性がある。アッシリア王のうち、サルゴン2世(シャル・キン、「真の王」)のように少なくとも数名は即位時に新しい名前を名乗ったことが確実であるが、仮にアッシュルバニパルが実際に何らかの身体障害を持っており、「カンダラヌ」が家族内におけるニックネームであったとしても、そのような特徴を強調するような名前を自分の公式名として選択するということは考え難い。最も重要なことは、バビロニアの文書がアッシュルバニパルとカンダラヌを二人の異なる人物として扱っていることである。アッシュルバニパルをバビロンの王と描写する同時代文書も存在しない。
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