アッシュル・ナツィルパル2世の死後
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「ムリッス・ムカンニシャト・ニヌア」の記事における「アッシュル・ナツィルパル2世の死後」の解説
アルベルト・カーク・グレイソンは1993年にムリッス・ムカンニシャト・ニヌアはアッシュル・ナツィルパル2世の死後も半世紀以上生きていたと主張した。これは前9世紀末から前8世紀初頭にかけて活動し大きな影響力のあったタルタン(総司令官)のシャムシ・イルの印章が彼女の墓から発見されていることにより、墓の建設は前800年頃であったに違いないとされている。しかし、シャムシ・イルの印章が同じ墓室の銅の棺で見つかったものであり、ムリッス・ムカンニシャト・ニヌアの石棺内にあったものではないことからこの説は最近の学者には捨て去られている。 グレイソンの説はもはや過去のものであるが、石棺の碑文からムリッス・ムカンニシャト・ニヌアがアッシュル・ナツィルパル2世よりもいくらか長生きしたことは確かである。この碑文は不思議なことにムリッス・ムカンニシャト・ニヌアをアッシュル・ナツィルパル2世と後継者シャルマネセル3世(在位:前859-前824)の両方の王妃としているように見られる。これが何を意味するのか明確ではなく、いくつかの説がある。もし彼女がアッシュル・ナツィルパル2世と彼の治世末期に結婚した時にまだ若かったならば、彼女は原理的には彼の息子と結婚することが可能であったであろう。そうではなく、彼女は夫の死後も王妃の称号を維持することが許されていたのかもしれない(即ち太后) 。ただしこれらのような行動をとったという記録がある他のアッシリア王妃の例はほとんど、または全く存在しない。また、この碑文では単に彼女が正式な称号で呼ばれているだけで、これは(シャルマネセル3世の治世に死亡した)アッシュル・ナツィルパル2世王妃と解釈されるべきであるのかもしれない。ムリッス・ムカンニシャト・ニヌアはシャルマネセル3世の母であった可能性の方が高いと考えられているが、彼女がシャルマネセル3世の妻であったか、あるいは母であったかは現代の学者による議論の最中である。 ムリッス・ムカンニシャト・ニヌアの石棺の蓋にある碑文は主として彼女の墓を荒らす者たちへの呪いで構成されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}アッシリア王アッシュル・ナツィルパル、アッシリア王シャルマネセルの王妃ムリッス・ムカンニシャト・ニヌアのもの。宮殿の女性(王妃)であろうと他の妻であろうと(何人たりとも)、後に何者もここに置いてはならぬ。この石棺をここから動かしてもならぬ。この石棺をこの場所から動かそうとするものは何者であれ、彼の魂が(他の)魂たちと共に葬儀の供物を受け取ることは無いであろう。これはシャマシュ神とエレシュキガル神の禁忌である!アッシリア王アッシュル・ナツィルパルの大献酌官Ashur-nirka-da’’inniの娘。死の影々の前から我が王座を除くものは何者であれ、彼の魂がパンを受け取ることがありませぬように!皆が後に(私を)死衣で覆い、油を(私に)注ぎ、仔羊を生贄としますように。 この呪詛にもかかわらず、ムリッス・ムカンニシャト・ニヌアの石棺は彼女が埋葬された後いずれかの時点で略奪された。この略奪の最中、石棺の大きな石蓋の一部が破壊され、何世紀にもわたって塵が墓の中を漂った。1989年にこの墓が発見された時、略奪された石棺の内部で発見されたのは石製のビーズ1つと骨の断片1つだけであった。
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