居住史
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発掘調査はムレイベットの居住史をI期からIV期の4期に分けており、放射性炭素年代測定によれば、ナトゥーフ期から先土器新石器時代B期の半ばまで、紀元前10200年から紀元前8000年に渡っている。 IA期は紀元前10200年から紀元前9700年に渡り、ナトゥーフ人が居住していた。この時期の特徴は暖炉と調理用の穴だが、居住用の構造物は確認されていない。採集、あるいは一部栽培されていたと考えられる作物は大麦とライ麦であり、ごくわずかな数の鎌と臼が見つかっている。住人たちはガゼルとウマ科の動物を狩り、漁業も重要な位置を占めていた。彼らは犬を飼っており、ムレイベットにおいてはその証拠は間接的でしかないものの、村落の近くおよび同時代のテル・アブ・フレイラでは犬の骨が発見されている。 I-B期およびII-A期、II-B期(紀元前9700年から紀元前9300年)はキアミア期(英語: Khiamian)であるとされるが、この時期についてはよくわかっておらず、ナトゥーフ期から先土器新石器時代A期への単なる移行期であるとの議論もある。ムレイベットはキアミア期の堆積物が考古学上の遺物と関連づけられる唯一の遺跡である。この時期の最も古い遺物はI-B期のもので、直径6メートルの円形の半地下の構造物が発見されている。これに続く時期には、これよりいくらか小さい円形の、地面に建てられた住居がいくつか発見されており、少なくともそれらのうちのいくつかは同時に利用されていた。壁は固められた土でできており、ときおり石を用いて強化されていた。暖炉と料理用の穴は建物の外にあり、採集された作物には大麦やライ麦、タデ属の植物が含まれる。採集用の鎌と作物をすりつぶす臼は過去に比べてより広く利用され、使用による摩耗を示しており、このことは穀物が居住者の食事として過去より重要な位置を占めていたことを示している。ムレイベットの動物相はII-B期の間に大きく変化し、発見された動物に関する廃棄物の70%をガゼルが占め、より小さい動物の重要性は低下したが、依然として漁業は重要であった。キアミア期の終わりに近づくにつれ、ガゼルの代わりにウマ科の動物の重要性が増していった。 III-A期およびIII-B期(紀元前9300年から紀元前8600年)はムレイベット期であり、ムレイベット期は先土器新石器時代A期の一部とされている。建築物はより多様になり、長方形の、複数の貯蔵庫を持つ建築物が以前の時期において見られた円形の建築物の隣に存在した。壁は土を利用して作られ、葉巻状に加工された石が芯として用いられていた。一方で半地下構造も依然として利用されており、同時代のジェルフ・エル・アハマル(英語: Jerf el Ahmar)で発見された構造物との類似がみられる。ジェルフ・エル・アハマルでは同様の構造物は共同体のための何らかの機能を果たしていたと考えられている。長方形の構造物には多くの部屋があったが、それらは居住のためには小さすぎるため、貯蔵のためだけに利用されたと考えられている。暖炉と調理用の穴には石が利用されている一方、依然として建物の外にあった。III期では、大麦やライ麦、ヒトツブコムギが食用に利用されていた。いくつかの証拠が、これらの穀物が収集というよりも栽培されていたことを示している。以前よりウマ科の動物とオーロックスの狩猟の重要性が増し、ガゼルの重要性は低下した。この時期は魚に関する廃棄物も稀にしか見られない。分析によれば、骨器および石器を用いて獣皮が利用されていたことがわかっている。 最後の居住期IV期は、IV-A期(紀元前8600年から紀元前8200年)とIV-B期(紀元前8200年から紀元前8000年)に分けられる。IV-A期においては建築物は発見されていない。穀物の栽培も確認されていないが、これはおそらくこの時期の考古学的資料がごくわずかしか採取されていないことによるものであると考えられている。狩猟の対象はもっぱらウマ科の動物であり、続いてオーロックスであった。家畜化された動物の利用の有無については明らかになっていない。IV-B期においては泥で作られた長方形の壁が発見されており、家畜化された羊とヤギが利用され、家畜化されたウシもおそらく存在した。
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居住史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 22:30 UTC 版)
座標: 北緯36度49分47秒 東経38度00分54秒 / 北緯36.82972度 東経38.01500度 / 36.82972; 38.01500 カルケミシュは新石器時代または金石併用時代以来人類が居住しており(甕棺〈pot burials〉の埋葬跡がある)、前2400年頃(初期青銅器時代)からは石棺(cist tombs)が見つかるようになる。エブラで発見された前3千年紀の文書庫の文書にもカルケミシュへの言及がある。マリおよびアララハの文書庫で見つかった前1800年頃に年代付けられる文書によれば、カルケミシュはアプラハンダ(英語版)という名の王によって統治されており、木材貿易の重要拠点であった。カルケミシュはウガリトおよびミッタニ(ミタンニ、ハニガルバト)と条約を結んでいた。古代には、この都市はユーフラテス川の渡し場となるこの地域の主要な浅瀬を支配下においていた。このことはその歴史的・戦略的重要性に極めて大きく寄与していたに違いない。 エジプト第18王朝のファラオ・トトメス1世はカルケミシュ近郊に自らのシリアおよびユーフラテス川の向こう側の土地の征服を記念した石碑を建立している。ファラオ・アクエンアテンの治世終わり頃、カルケミシュはヒッタイト王シュッピルリウマ1世(前14世紀頃)によって占領された。彼はカルケミシュを息子のピヤシリが統治する王国とした。 後期青銅器時代の間、カルケミシュはヒッタイト帝国の最も重要な拠点の1つとなり、前13世紀頃にはその頂点に達した。前1200年のカタストロフの最中、ヒッタイト帝国が海の民の手に落ちた時にも、カルケミシュは海の民の攻撃を生き延び、鉄器時代の新ヒッタイト王国の重要な首都となった。ラムセス3世はメディネト・ハブ葬祭殿の治世第8年の碑文でカルケミシュが海の民によって破壊されたと述べているが、カルケミシュは間違いなくこの攻撃を生き延びている。クジ・テシュブ1世はこの地で権力を行使したことが証明されている人物であるが、彼は最後のヒッタイト王シュッピルリウマ2世の同時代人であったタルミ・テシュブ(英語版)の息子であった。彼とその後継者たちは小アジア南東部から北部シリアおよびユーフラテス川の西側屈曲部の間に広がる「小帝国」を、「大王」の称号の下に支配した。このことはクジ・テシュブが彼自身を偉大なるシュッピルリウマ1世の家系(ヒッタイト王家)の真の後継者と見做していたこと、そしてヒッタイトの首都ハットゥシャの王家がもはや存在しなかったことを示している。カルケミシュの強力な王国は前1175年頃から前975年まで続いた。やがて、周辺の支配地を徐々に失いはじめ、カルケミシュ市周辺を中心とした地方都市国家になっていった。 カルケミシュの守護女神は恐らくフルリ人(フリ人)に起源を持つ神であるクババ(英語版)である。この女神は長いローブを纏い、鏡を持つ立ち姿、または座った姿の威厳ある女性として描写された。この都市で崇拝される主たる男神はヒッタイトの牡鹿の神クルンタ(Kurunta)と同系の神、カルフハ(Karhuha)であった。 前9世紀、サンガラ(Sangara)王がアッシリアのアッシュル・ナツィルパル2世とシャルマネセル3世に貢納を納めた。そしてピシリ(Pisiri)王治世下の前717年、カルケミシュはサルゴン2世に征服された。2015年に初めてサンガラの名が記録された象形文字碑文がカルケミシュ遺跡自体から発見された(これは1876年に後述するジョージ・スミスによって描かれた石碑の頂上部であり、1881年に大英博物館に運ばれた)。サルゴン2世はカルケミシュを重要な属州の首都へと変えた。 前605年の夏、ネブカドネザル2世のバビロニア軍とファラオ・ネコ2世のエジプトおよびアッシリア軍の残党(エレミヤ書46:2)の間でカルケミシュの戦いが行われた。ネコ2世の遠征の目的は新バビロニアの西進を食い止め、ユーフラテス川を渡る交易路を遮断することであった。しかし、エジプト軍はバビロニア軍の奇襲によって敗退し、最終的にシリアから放逐された。 トルコとイタリアによる発掘調査では、カルケミシュ遺跡には、新バビロニアによる短期間のカルケミシュ占領から1900年代初頭の最終的なカルケミシュの放棄に至るまでの間にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)による占領の3つの層、ヘレニズム時代に行われた重要な再建、後期ローマ時代の記念碑的な層、初期ビザンツ時代およびアッバース朝期の3つの層が存在することが発見された。
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居住史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 05:00 UTC 版)
この土地における居住は前3千年紀に始まったと見られ、前2千年紀および新アッシリア時代に最も規模が拡大し、最盛期に達した。前2千年紀の繁栄は主として古バビロニアおよびミッタニ(ミタンニ)時代の間であった。テル・アル=リマーは折に触れてカッタラ(Qattara)およびカラナ(Karana)と関連付けられている。この両都市はいずれも前2千年紀にこの地域に存在していたことが知られている。
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