後期青銅器時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
詳細は「ミケーネ文明」を参照 初期青銅器時代末に災厄を受け、文化的後退を見せたギリシャ本土においてはその痛手より立ち直るのにはかなりの時間を経たと考えられている。遺跡数の減少に伴い、副葬品も貧弱なことからギリシャ本土の文化が低迷したことが考えられるが、ドイツの考古学者ハインリヒ・シュリーマンがミケーネにおいて豪華な副葬品を納めた墓を発見したことにより、紀元前1650年頃、ミケーネ文明が始まりを告げたと考えられている。この時期、ペロポネス半島やギリシャ中部にもミケーネの影響を受けた大規模な集落が生まれ始めており、これらを総計してミケーネ文明と呼ばれているが、これはギリシャ系のアカイア人、イオニア人らが定住したことにより始まり、ミノア文明の影響をうけつつも独自の道を歩み、さらに文化の中に武器など武力の要素が強く見られることでその違いを見せている。また、ミケーネ文明ではミノア文明とちがい、宮殿などよりも墓の造営に力が入れられており、前1500年ごろ、『トロス墓』と呼ばれる大規模な石造の墓の建設が開始されたと考えられている。 ミノア文明でのこの大規模な『トロス墓』の建設は前17世紀から前15世紀までに行われていたと考えられており、王国が構築されたことにより初期国家が形成されたと考えられている。さらに、ミノア文明以来続いている地中海東部との交流はヒッタイトやエジプト新王国などと引き続き行われていたと考えられており、アメンホテプ3世の葬祭殿にはクノッソスやミケーネの地名が刻まれ、ミケーネではアメンホテプ3世のカルトゥーシュを刻んだ象牙が発見されている。 ミケーネにおける宮殿はクレタ島の開放的なものとはちがい、「メガロン」と呼ばれる王の間を中心にしていることから、王への権力集中が進んでいたと考えられている。テッサリアのイオルコス、ギリシャ中部のオルコメノスやテーバイ、アテナイ、アルゴス平野のミケーネ、ティリンス、ミデアなどに小王国が存在していたと考えられ、その中でもペロポネス南西部のピュロス王国(英語版)については研究が進んでいる。 特にこのピュロス王国ではアメリカ合衆国の学者カール・ブレーゲンが発掘した際に「線文字B」が描かれた粘土板を発見、後にイギリスのアーサー・エヴァンズがこれを解読することに成功することができた。この線文字Bの解読により、ミケーネ文明の人々がインド=ヨーロッパ語族に属し、さらに王国における日常業務が明らかにされることとなった。 ピュロス王国には合計で16の行政区を持っており、それぞれに長が置かれ、それを王が統括したと考えられている。そして王の名称が「ワナックス(英語版)」(線文字B: 𐀷𐀩𐀏 - wa-na-ka、アナックスとも)と呼ばれていたが、これは神に近い存在というニュアンスが含まれており、これは西アジアからの影響と考えられている。さらに粘土板には公有地や私有地が存在しており、外国から連れてこられた女奴隷が働き、ポセイドンやポトニア神へ祭祀を行っていたことが記載されている。これらのことが全てに当てはまるとは言えないが、当時の社会を表していると考えられている。 一方、それまで独自の発展を告げていたクレタ島は崩壊を遂げるが、これはミケーネ文明の人々による侵略が考えられている。このような侵略により、ミケーネ文明は後青銅器時代中ごろから後半までに(後期ヘラディックIIIA期)までにギリシャ本土、クレタ島、エーゲ海を覆い尽くし、さらにはシチリアや、キプロスにまで及び、ヒッタイトやエジプト新王国と肩を並べる存在であった。 しかし前1200年のカタストロフとよばれる地中海東側全域で発生した気候変動によりミケーネ文明は崩壊したが、その文化要素は以後200年ほど続いた。この破局は過去にはドーリス人や「海の民」による侵略が考えられたが、現在ではこの説はあまり有力ではない。 前1200年のカタストロフの影響は地中海東部の全域においてヒッタイトの滅亡、エジプト新王国の衰退も見られることから、確実な原因を探るにはこれらの状況も視野にいれなければならない。
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