エマルの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/25 15:45 UTC 版)
紀元前3千年紀半ば、エマルはエブラの支配者の影響下にあったことが、エブラの文書庫から発見された粘土板から明らかになっている。マリで発見された紀元前18世紀(青銅器時代中期)の文書では、エマルは隣接するアムル人の国家ヤムハド(現在のアレッポ)の影響下にあったとされる。エマルからは後期青銅器時代の紀元前13世紀および紀元前12世紀初期のアッカド語文書が出土している。また同時代の資料では、ハットゥシャおよびウガリットから出土した文書、およびアッシリア帝国の文書庫から出土した文書にもエマルへの言及がある。当時エマルはヒッタイト帝国の勢力圏にあり、カルケミシュの副王に支配されていた。 遺跡や文書は紀元前12世紀のものを境に途絶えてしまう。これは青銅器時代末期から鉄器時代初期にかけて起こった、異民族侵入などによる文明崩壊の結果である。この地は荒れ果てたまま古代ローマの領土に組み込まれる時代を迎える。ユーフラテス流域はローマ帝国の東の国境地帯で、エマルの廃墟のすぐ南(現在のカラート・バリス Qala'at Balis)に再度都市が作られバルバリッソス(Barbalissos)と呼ばれた。253年、サーサーン朝ペルシャ2代目皇帝のシャープール1世率いる軍勢とローマ軍団がこの地でバルバリッソスの戦いを行い、サーサーン朝が勝利しローマはシリアを失うことになる。東ローマ帝国はバルバリッソスの支配を取り戻しユスティニアヌス1世は城壁を新しくしている。また6世紀ごろまでのキリスト教会の資料にもバルバリッソスの名は見えるが、やがて忘却され廃墟となった。
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