古バビロニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 11:02 UTC 版)
詳細は「イシン・ラルサ時代」、「カッシート」、および「ミタンニ」を参照 次にメソポタミアで勢力を持ったのは、現シリア地方から移住してきたセム語派のアムル人だった。ウル第三王朝はアムル人やエラム人の侵入により、紀元前2004年頃に滅亡した。その後紀元前1750年頃まではイシン・ラルサ時代と呼ばれ、イシン、ラルサ、バビロニアなどアムル人王朝がメソポタミアの覇権を競い合った。アムル人がメソポタミアに建てた王朝はシュメールの後継者の意識を強く持ち、政治的、宗教的にはシュメールやアッカドの文明に同化していった。 その後、メソポタミアはバビロンのハンムラビ王(紀元前1792年-紀元前1750年)によって再統一され、バビロニア王国(古バビロニア、またはバビロン第1王朝)として繁栄した。「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典はハンムラビ王によって作られた。古バビロニアはシュメールからペルシャ湾まで、チグリス・ユーフラテス川のほぼ全流域を統治し、約200年の間続いた。 紀元前1595年、アナトリア半島(小アジア)のヒッタイト(ヒッタイト古王国)が東方に遠征し、古バビロニアは滅ぼされた。ヒッタイト人はインド・ヨーロッパ語族に属する言語を用いた人々である。遠征直後にヒッタイト王ムルシリ1世が暗殺され、ヒッタイトが衰退したので、メソポタミアの統治は混乱した。 メソポタミア北部ではフルリ人がミタンニ王国を建立した。メソポタミア南部のバビロニア地域は、紀元前1475年頃に、カッシート王国(バビロン第3王朝)が海の国第1王朝(バビロン第2王朝)を滅ぼし統一された。カッシート人の出自は不明な点が多い。これによりオリエントは、ミタンニ王国とカッシート王国、北のアナトリア半島のヒッタイト、西のエジプトと、4強国が支配する四大国時代になった。
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