古パルテノン
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アテネのアクロポリス神域の開闢は非常に古く、新石器時代に遡る築壁、ミケーネ時代の城壁跡が発見されている。ここへアテーナー・パルテノスの聖域を設けようという試みは、マラトンの戦い(紀元前490年-紀元前488年)勃発の頃に行われた。これは、いつ作られたか定かでないオリーブの木で彫られたアテーナー・ポリアスの像を祭った古風な神殿の横にあったヘカトンパイオンという建物を取り替えて建てられた。この「古パルテノン」と言える神殿は紀元前480年にアケメネス朝ペルシアがアテナイを占拠し際にアクロポリス全体とともに完全に破壊されるが、その時点で未だ建設中だった。この古パルテノンの建築と破壊はヘロドトスも伝え、円柱の一部はエレクテイオン北側の幕壁に、眼に見える形で流用された。1885年から1890年にかけて、Patagiotis Kavvadiasが行った調査で古パルテノンの遺構が見つかり、存在が確認された。ヴィルヘルム・デルプフェルトが主導し、ドイツ考古学研究所 (German Archaeological Institute) が指揮を執ったこの発掘では、デルプフェルトが「パルテノンI」と呼ぶ元々の古パルテノンの基礎部分が、現在のパルテノン神殿とずれた位置にあることを発見し、従来の定説に訂正を加えた。デルプフェルトの調査によると、古パルテノンは3段の基礎があり、2段は土台と同じポロス島の石灰岩が用いられているのに対し最上段はKarrhaの大理石が使われ、これは後に覆われペリクレス時代のパルテノン神殿の基礎段となった。ただしこれは規模が小さく北方向にずれており、現在のパルテノン神殿が旧来の建物をすっぽりと覆いつつ全く新たに建設された事を示す。発掘に関する最終報告ではより複雑な図が示され、この基礎が執政官キモン時代の壁と同じ時代のものであり、それらは古パルテノン建設後期のものである可能性を示した。 古パルテノンが紀元前480年に破壊されたのならば、再建されるまで33年もの間崩れたまま放置されていたのか疑問が持たれた。これについて、紀元前479年のプラタイアの戦いを前に行われた「ペルシア人の暴虐を忘れないために、破壊された聖域は再建しない」というギリシア同盟による宣誓が影響する合意があった。紀元前450年のカリアスの和約成立でアテナイ人はこの宣誓を無効にすることができたが、それまで再建に取り掛かれなかった理由には、ペルシアの侵攻に抗っていたため財政的余裕が無かったというありふれた背景もあった。しかし、バート・ホッジ・ヒルが行った発掘から、キモン在任の紀元前468年以降の時代には「2つ目のパルテノン(パルテノンⅡ)」が存在したと考えられる。ヒルの主張では、デルプフェルトが発見した「パルテノンI」最上段に当たるKarrha大理石は、「パルテノンⅡ」3段の1番下に当たり、その基壇が敷設された面は23.51×66.888m(77.13フィート×219.45フィート)になると計算した。 1885年の発掘では、掘り起こし手段が慎重さに欠けた上にリファイリングも雑だったため多くの重要な証拠が失われてしまい、考古学の順序だて法(en)では古パルテノンの時代認定は明瞭にできなかった。1925年から1933年にかけて、B.グラーフとE.ラングロッツはアクロポリスから出土した陶器の破片を研究し、2巻の論文を著した。これに影響されたアメリカの考古学者ウィリアム・ベル・ディンスムーア(en)は、神殿基盤の年代特定と、アクロポリスの盛土の下に隠されていた5つの壁に関する研究を発表した。ディンスムーアは「パルテノンI」の建設年を最も早くとも紀元前495年とし、デルプフェルトの考えと矛盾する結論を導いた。さらにディンスムーアは、デルプフェルトが定義したペリクレス時代の「パルテノンⅡ」以前に神殿は2つあったと主張した。1935年の『American Journal of Archaeology』にて、ディンスムーアとデルプフェルトの2人は意見を交換し合っている。
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