バビロニア遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 19:46 UTC 版)
「ティグラト・ピレセル3世」の記事における「バビロニア遠征」の解説
「バビロニア遠征(フランス語版)」も参照 王に就くと、彼はバビロニアのアッシリアへの併合を主張した(紀元前745年、アナルの月の9日。治世第1年)。対象は「ドゥル=クリガルズからシャマシュのシッパル・・・(バ)ビロニアの都市、低[い海の岸沿いの]ウクヌ川(Uqnu river)まで」とされた(「低い海」は、ペルシア湾と見なされている)。紀元前731年と紀元前729年にはバビロニア(バビロンE王朝)に遠征してナブー・ムキン・ゼリ(英語版)を捕らえてバビロンの統治権を確保し(バビロニア年代記ABC1、第1~21行)、自らバビロニア王(バビロン第10王朝)となって支配下に組み入れた。統治者として、彼は宦官を配置した。
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