バビロニア統一以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:27 UTC 版)
彼らがバビロニアに作った王朝はバビロン第3王朝(カッシート王国、カッシュ朝等とも)と呼ばれ、バビロニアの歴史上最も長く続いた王朝であり、また当時エジプト、ヒッタイト、ミタンニ等と並ぶ強国として勢力を振るった。 カッシートとエジプトの間でやり取りされた外交書簡(アマルナ文書)が現存しており、当時の外交関係を知る上で貴重である。 紀元前1400年期半ば以降、強大化したアッシリアとの関係が悪化した。更に東のエラムとも紛争が生じた。紀元前1345年に即位したクリガルズ2世(英語版)はエラムに侵攻し、スーサを陥落させるなどしたが、アッシリアとの戦いに敗れて領土の一部を失った。 その後も度重なる国境紛争が続き徐々にアッシリアが優位に立っていった。遂に紀元前1225年、カッシート王カシュティリアシュ4世(英語版)はアッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世に敗れアッシリアに連れ去られた。その後バビロニアはアッシリアの支配下に入るが、この時期のアッシリアの統治形態が直接的な物であったのか、間接的な物であったのかはよく分かっていない。 やがてカシュ・ティリアシュ4世の息子アダド・シュマ・ウスル(英語版)の下でバビロニアは再び自立する事となる。アダド・シュマ・ウスルはアッシリアの侵攻を食い止める事に成功したが、彼の死後もアッシリアと国境紛争が続いた。 紀元前1160年、ザババ・シュマ・イディナ(英語版)が即位し、アッシリアと戦ったが敗れて大きく領土を失った。ついでエラム王シュトルク・ナフンテ(英語版)の攻撃を受けてバビロンが陥落し、バビロンに祀られていたマルドゥクの神像を始め、ハンムラビ法典等多くの財宝がスサに持ち去られた(この時持ち去られたハンムラビ法典碑が20世紀に入ってスサで発見される事になる。)。 紀元前1157年、エンリル・ナディン・アヘ(英語版)が即位し、王朝復活を目指しエラムと戦うも敗れて死亡し、紀元前1155年バビロン第3王朝は滅亡した。
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