バビロニア統一以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:27 UTC 版)
カッシート人の故地については、ザグロス山脈周辺からメソポタミアに侵入したと言う説が有力ではあるが、確実ではない。 カッシート人の記録が最初に登場するのは紀元前18世紀頃のバビロン第1王朝時代の事であり、傭兵や農業労働者として記録されている他、カッシート人との戦闘の記録が残されている。しかし総じてカッシート人の初期の歴史は不明点が多く文書記録などがほとんど見つかっておらず、メソポタミアの歴史における空白期間となっている。彼らが歴史の主役として登場するのは紀元前16世紀以降の事である。紀元前18世紀頃以降はユーフラテス中流域のテルカに本拠を置いていたが、紀元前1595年にバビロン第1王朝がヒッタイトの攻撃を受け崩壊し混乱状態にあったバビロニアにおいて次第に勢力を拡大したと見られる。しかしカッシート人がバビロニアにおける支配をいつ頃確立したのか、正確な時期はわかっていない。ただ、紀元前1500年頃までにはバビロニアにある程度の勢力を築き上げていたと思われる。そして紀元前1475年頃、カッシート王ウラム・ブリアシュ(英語版)が海の国第1王朝(バビロン第2王朝)を滅ぼしてバビロニアを統一した。カッシート人は外来の勢力であったが、バビロニア文化を極めて好み、バビロニアの神々を祭る神殿を盛んに建築し、公文書その他はほとんどバビロニア語(アッカド語)を用いるなどし、早い段階で現地に同化した。
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