バビロンの再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:25 UTC 版)
エサルハドンは帝国南部のバビロニアの住民からの支持を確保したいと望んでいた。これを実現するため、彼は南部全体において、それまでのアッシリア王の誰よりも広い範囲で建築・修復事業に資金を注ぎ込んだ。バビロニアは彼の治世からそう遠くない時期にアッシリア帝国の一部となったに過ぎず、前世紀のアッシリア王ティグラト・ピレセル3世によって征服・併合されるまで、アッシリアの属王である現地人の王によって統治されていた。おそらくエサルハドンはこの建設計画を通じて、アッシリアによるこの地域への支配が継続することの恩恵、彼が現地人のバビロニア王と同様の配慮と寛容をもってバビロンを統治するつもりだということを示そうとしたのであろう。 バビロン市はバビロニアという地名の元となった都市であり、南メソポタミアにおいて1000年にわたって政治的・宗教的中心地であった。バビロニア人の独立志向を抑えるため、エサルハドンの父センナケリブは前689年にバビロン市を破壊し、都市神ベール(英語版)(マルドゥク)の像をアッシリア領奥深くへと持ち去っていた。バビロン市の再建はエサルハドンによって前680年に告知され、彼の最も重要な事業の1つとなった。 エサルハドンの治世を通して、この再建を監督するために彼が任命した役人からの報告が、この建設計画の巨大な規模を物語っている。バビロンの大がかりな復興は、センナケリブによる破壊の後に残されていた大量の瓦礫の除去、この時点までに奴隷化されていた、あるいは帝国全土に散らばっていたバビロン市民の再定住、大部分の建物の再建、エ・サギラとして知られるベール(マルドゥク)に捧げられた巨大な神殿複合体およびエ・テメン・アン・キと呼ばれる巨大なジッグラト、同様に2つの市内壁の修復などからなった。バビロンの再建はバビロニアの人々に向けて善意を示して見せるというだけではなく、バビロニア人が王権に付与していた特性の1つをエサルハドンが担うことを可能としたという意味で重要だった。アッシリア王は一般的に軍人であるとみなされていたが、バビロンの王は建築家かつ修復者(特に神殿の)であるのが理想であった。エサルハドンは自身をこの都市の破壊と関連付けないよう注意し、バビロンに作った碑文では「神々に任命された」王として自分自身にのみ言及し、センナケリブには北方に建てた碑文でのみ言及した。そして父の所業としてではなく、バビロンが「神々の怒りに触れた」ものとしてバビロンの破壊を非難した。エサルハドンはバビロンの再建について次のように述べている。 偉大なる王、強き君主、全ての主、アッシュルの地の王、バビロンの支配者、敬虔なる羊飼い、マルドゥク神の寵愛を受け、諸君主の君主、忠良なる指導者、マルドゥク神の伴侶ザルパニトゥム神に愛され、謙虚で、従順にして、神々の力を賞賛してやまず、神々の偉大さが生まれたその最初の日から畏怖する[余、エサルハドン]。以前の王の治世において悪の兆しがありし時、バビロンは都市神たちの怒りを買い、神々の御命令により破壊された。全てをあるべき場所に修復し、神々の怒りを宥め、憤怒を鎮めるために選ばれた者はエサルハドン、余であった。御身マルドゥク神はアッシュルの地の守護を余に委ねられた。同時にバビロンの神々は彼らの神殿を再建し、彼らの宮殿エ・サギラの正しき儀式を再開するよう余に申し付けた。余は全ての我が労働者を召集し、バビロニアの全ての人々を徴集した。余は彼らを働かせ、地面を掘り、土を籠に入れ運ばせた。 エサルハドンはバビロンの市門、胸壁、堀、庭園、聖堂、その他の様々な建物・建造物の再建を成し遂げた。エ・サギラ神殿の建設中は特段の注意が払われ、宝石、芳香豊かな油、香料が神殿の基礎に捧げられた。貴金属が神殿の扉の覆いに選ばれ、ベール像を収める台座は黄金で作られた。エサルハドンがバビロンに任命したある総督からの報告によって、この再建はバビロニア人から極めて好評であったことが伝えられている。 私はバビロンに入りました。バビロン市民は私を親しく迎え入れ、「王はバビロンから持ち去られ奪われたものをもどした」と言って日々陛下を祝福しております。またシッパルからバーブ=マラート(Bab-marrat)に至るまでのカルデア人の首長たちは「バビロンに(人々を)再定住させた者(それは彼である)」と言って陛下を祝福しております。」 バビロンの再建はエサルハドンの生前に完了せず、多くの作業が後継者たちの治世の間も行われていた。エサルハドン治世中に再建事業がどの程度行われたのか正確には不明であるが、バビロンの神殿群の遺構から彼の石碑が発見されており、かなりの程度、作業が完了していたことがわかる。後継者たちによって完全に修復が成されたと思われる市壁を除き、エ・サギラ神殿とエ・テメンアンキのほぼ完全な修復など、エサルハドンは自分の再建目標をほぼ達成したかもしれない。 エサルハドンは南部の他の都市の再建事業も支援していた。エサルハドンは統治第1年にアッシリアが戦争で鹵獲していた様々な南部の神々の像を返還した。センナケリブによるバビロン市の破壊以来、ベール像は他のバビロニアの伝統的な神々の像と共にアッシリア北東部にあるイッセテ(Issete)の町に保管されていた。ベール像はアッシリアに残されたが、他の神々の像はデール(英語版)、Humhumia、シッパル=アルル(Sippar-aruru)に返還された。その後数年の内に、ラルサとウルクの神像も返還された。バビロンで行ったのと同じように、エサルハドンはウルクで瓦礫を撤去し、そこにある女神イシュタルの神殿エ・アンナ(英語版)を修復した。ニップル、ボルシッパ、そしてアッカドといった諸都市でも小規模ながら同様の復興計画が実施させた。 南部におけるエサルハドンの大規模建設計画と努力が彼とバビロニア王権の伝統を結び付け、幾人かの学者は彼を「アッシリアのバビロニア王(Babylonian king of Assyria)」と描写しているが、このような見解は実際のエサルハドンの努力を歪めた表現かもしれない。エサルハドンはアッシリアとバビロニア双方の王であり、彼の軍事的・戦時的基盤は前任者たちとほぼ同様に、北部にあり続けた。同時に、南部におけるエサルハドンの建設事業はかつてないほど壮大・野心的なものであったが、彼はアッシリアの中核地帯でも、バビロニアほど市民志向ではなかったものの、同様の計画を完遂した。アッシリアではエサルハドンは神殿を再建・修復するとともに、宮殿や軍事的要塞の建設にも取り組んだ。 恐らく、南部で行っている事業と同等の割合で北部でも事業がなされるという安心感をアッシリアの人々に与えるため、エサルハドンはアッシュル市のエ・シャラ(英語版)神殿の修復も実施させた。この神殿は北部メソポタミアにおける代表的な神殿の1つである。アッシリアの首都ニネヴェおよびアルベラの町でも同様の事業が行われた。南部と北部の神殿建設事業は同様のものであったが、エサルハドンがバビロニアよりアッシリアに重きを置いていたことは、北部では様々な行政的・軍事的建設事業が行われたのに対し、南部では完全に欠如していたことから明らかである。
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