新バビロニアの勃興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 04:05 UTC 版)
「シン・シャル・イシュクン」の記事における「新バビロニアの勃興」の解説
詳細は「バビロンの反乱 (前626年)(英語版)」を参照 シン・シュム・リシルの反乱の数ヶ月後、バビロンで別の反乱が発生した。ナボポラッサル(ナブー・アパル・ウツル)と呼ばれる役人または将軍が、恐らくはシン・シュム・リシルの反乱による混乱とバビロニアにおける空位 に乗じる形で、ニップル市とバビロン市を攻撃した。ナボポラッサルの軍勢はシン・シャル・イシュクンが現地に残していた守備隊からバビロニアの諸都市を奪取したが、シン・シャル・イシュクンの対応は迅速で、前626年10月にはアッシリア軍がニップル市を奪還しウルクでナボポラッサルを包囲すると同時にバビロン市の再占領(これはバビロン市に対してアッシリアが歴史上最後に取った行動となる)にも取り掛かった。しかし、バビロン市への攻撃はナボポラッサルの守備隊によって撃退され、ウルクへの攻撃も同様に失敗した。 アッシリア軍による反撃失敗の余波の中で、ナボポラッサルは前626年11月22/23日にバビロン王(英語版)に即位し、独立したバビロニア王国を再建した。前625年から前623年にかけて、シン・シャル・イシュクンの軍勢は再度ナボポラッサルの打倒を試みて北部バビロニアに遠征を行った。当初は順調に進み、前625年にシッパル市を占領するとともに、ナボポラッサルによるニップル市の再占領を阻止した。この争いの最中に、アッシリアの別の属国エラムはアッシリアへの貢納を打ち切り、デール市(英語版)などいくつかのバビロニアの都市がナボポラッサルの反乱に加わった。これが引き起こす脅威を認識していたシン・シャル・イシュクンは自ら大軍を率いて反撃を行い、前623年にウルクの奪還に成功した。 前622年にアッシリアの西方の属州で、別のアッシリアの将軍による反乱が発生した。これがなければシン・シャル・イシュクンは最終的に勝利を収めていたかもしれない。この名前不明の将軍はシン・シャル・イシュクンとアッシリア軍が留守にしている隙にニネヴェへと攻め上った。新たに編成された急造の軍隊は会敵すると戦うことなく降伏し、アッシリアの王位はこの将軍に奪われた。軍隊が降伏した事実は、この将軍がアッシリア人であり、恐らくは王族であるか少なくともそれに近しい(王と認められるほど)高い地位を持った人物であったことを示している。当然のことながら、この事態の進展をシン・シャル・イシュクンが放置しておくことは不可能であり、彼はバビロニア遠征を放棄することになった。100日間の内戦の後、この僭称者を撃破することに成功したが、アッシリア軍が退去したことによってナボポラッサルはアッシリアが最後にバビロニアに残していた前哨地を前622年から前620年にかけて征服した。バビロニア軍によるウルク包囲は前622年10月に始まった。アッシリアと新バビロニアの間で争奪が繰り返されたこの古代都市ウルクは、前620年までには完全にナボポラッサルの手に落ちた。ニップル市もまた前620年に征服され、ナボポラッサルはアッシリア人をバビロニアから立ち退かせた。彼はアッシリア軍を追い払うことに成功したが、ウルやニップルのようないくつかのバビロニアの都市では前617年まで親アッシリアの派閥が残っていたため、ナボポラッサルによるバビロニアの完全な統合支配は遅くなった。バビロニアの戦いにおける現地衝突の最終局面は各地に荒廃をもたらし、餓死を免れるために親たちは子供を奴隷として売却することを余儀なくされた。
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