発掘史とは? わかりやすく解説

発掘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/17 05:39 UTC 版)

高瀬山遺跡」の記事における「発掘史」の解説

高瀬周辺明治ころから古墳遺跡存在知られており、大正時代調査十数基の古墳群確認された。しかし、それらの古墳群その後開墾によりほとんど失われてしまう。昭和7年1932年ブドウ園整備中に現れ石槨から鉄製直刀出土しこれを契機として発掘調査が行われることとなった。この時発見されたのが高瀬山古墳である。昭和55年1980年高瀬山西側から温泉湧出したことを発端として、周辺開発計画され、それに伴って遺跡分布調査が行われた。それまで2地点のみが知られていたが12地点遺構・遺物集中地区確認された。昭和57年1982年高瀬山J遺跡調査され昭和5961年1984年1986年高瀬B・K・L遺跡調査された。昭和6263年1987年1988年山形県教育委員会高瀬山K遺跡調査した平成元年1989年東北横断自動車道酒田線(現:山形自動車道建設当地区に計画され平成元年4年1989年~1992年)に分布調査が行われた。その結果1.6km渡って遺構遺物発見され高瀬山遺跡範囲拡大されることとなった

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発掘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/05 07:46 UTC 版)

子母口貝塚」の記事における「発掘史」の解説

1893年明治26年)には鳥居龍蔵による採集が行われ、1927年1929年昭和2・4年)には大山柏による調査があり、その調査結果元にして山内清男子母口式土器命名したその後も、1930年昭和5年)に久本医師・岡栄一中心とする考古学会による発掘が行われ、また山内自身調査赴くなど、数多く調査が行われていたが、戦災資料失われる当事者逝去するなどの事態に見まわれ、これらの調査結果まとまった資料として残ることはなかった。 1957年昭和32年2月19日付で県の史跡指定される戦後には、盗掘が行われていたことを契機として1967年昭和42年)に川崎市教育委員会のもと発掘調査が行われ、これが初めてのまとまった報告となったその後も、1986年昭和61年)に川崎市市民ミュージアムによる発掘行われた。現在は子母口公園として整備され現地保存されている。

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発掘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/27 07:37 UTC 版)

モヨロ貝塚」の記事における「発掘史」の解説

1913年大正2年)に網走訪れた青森県アマチュア考古学研究米村喜男衛発見し学界報告した発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異な文化存在知った米村は、網走に住むことを決めて米村理髪店を開業し傍ら遺跡調査と研究携わった大正時代には、この遺跡文化北方的な独特のものであるということ以上はわからなかった。1933年昭和8年)に、オホーツク海の南沿岸広がるオホーツク沿岸文化が、同時代北海道文化別個のものとみなされるようになった今日いうオホーツク文化である。 遺物保存・展示するために、1936年昭和11年)に網走北見郷土館(現 網走市立郷土博物館)が建てられた。モヨロ貝塚同年12月16日に国の史跡指定された。1941年昭和16年)・1942年昭和17年)、海軍施設建設のため遺跡一部破壊され、緊急発掘受けた100体を超える人骨多量土器石器骨角器金属器などが出土した北海道大学医学部大場利夫によって資料報告(『北方文化研究報告北海道大学1956年昭和31年)および以降)されている。 史跡指定28確認されていた住居址は、このため現在には約20減った戦後1947年昭和22年)から1951年昭和26年)にかけて大規模な調査実施された。平成期はじめの発掘で約80基ほどの墓が密集して発見され、また大麦はじめ多く栽培植物種子が見つかっている。

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発掘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/03 19:00 UTC 版)

茂ヶ崎横穴墓群」の記事における「発掘史」の解説

1988年昭和63年4月5日東北工業大学二ツ沢キャンパス造成工事中に、穴と人骨見つかった。後に人骨数十年前のものと判明したが、横穴のほうは古代遺跡とわかり、仙台市教育委員会緊急調査実施した4月7日8日11日から18日までの日程で、11基の穴が発掘調査された。そのうち1つ第2次世界大戦中の防空壕であった調査終了した当日に1基が見つかり、これをその日のうちに調査し終えた工事再開された後、4月28日にまた横穴が5基見つかった5月6日から16日調査で、2次調査分は14になったが、1次調査のときと比べ遺存状態は悪かった横穴の端だけが検出されたものもある。これら調査終了後遺跡破壊された。

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発掘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/03 18:32 UTC 版)

愛宕山横穴墓群」の記事における「発掘史」の解説

愛宕山横穴開口していることは、古くから地元知られており、1912年大正元年発行地図には北側のものが蝦夷穴として記入されている。 1936年昭和11年3月から道路開削のため山を削ったとき、多数横穴とその中から人骨直刀須恵器発見されたが、みな散逸したという。 愛宕山横穴初め調査したのは清水東四郎で、1937年昭和12年)の調査南東斜面と北斜面あわせて34横穴があることを報告した。後に伊東信雄も一つの穴を実測した。 開口している横穴は、第2次世界大戦中に防空壕として使われその後民家物置きされたりした。戦後仙台市街拡張にともない宅地造成破壊されたものもあった。 愛宕大橋架ける際、この取り付く道路山の端を削ることになり、仙台市調査乗り出した1973年に南斜面10か所の横穴確認しそのうち9か所を発掘調査した。このときは須恵器1個と人骨出た1976年昭和51年4月21日、山の南東斜面付近道路工事をしていると、突然穴が開き、中から人骨見つかった通報され現場調べた仙台南警察署は、古人骨ではないかとして仙台市教育委員会連絡し、緊急発掘が行われた。これが装飾横穴古墳で、愛宕山横穴中でももっとも重要なのである玄室壁画重要なものと考えられたが、当時保存余裕がなく調査後埋め戻した。現在のファミリーレストランビッグボーイ仙台愛宕店の横である。 1991年平成3年)の9月10月に、住宅建設前発掘調査が行われた。このとき18基の横穴地下から発見されそのうち15基が調査された。発掘以前部分的に破壊されいたもの多かったが、直刀ガラス玉など若干遺物見つかった

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発掘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 07:21 UTC 版)

新郷貝塚」の記事における「発掘史」の解説

1803年鳥居龍蔵により調査実施されその後1927年秩父宮御台臨に際して柴田常恵が、1931年には県史編さん事業として、さらに1933年には東京帝国大学医学部解剖学教室発掘調査実施している。これらの調査によって、3軒の住居址伸展葬3体を含む5体の人骨検出され縄文時代後期称名寺式堀之内式・加曽利B式・後・晩期安行土器出土した。他に土偶土版耳飾等の土製品石鏃石斧石棒等の石器類貝輪や貝刃が出土している。

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発掘史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 05:00 UTC 版)

テル・アル・リマー」の記事における「発掘史」の解説

この地域当初1938年にシートン・ルロイド(英語版)によって調査された。テル・アル=リマー遺跡1964年から1971年までデーヴィッド・オーツ(英語版)の指揮でイギリス・イラク考古学学校英語版)(British School of Archaeology in Iraq)のチームによって発掘された。前2千年紀初頭巨大な神殿宮殿、および新アッシリア時代建造物発掘されている。テル・アル=リマーは、前3千年紀におけるレンガアーチbrick vaulting)の作例存在することでも知られている。

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