発掘史
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高瀬山周辺は明治のころから古墳や遺跡の存在が知られており、大正時代の調査で十数基の古墳群が確認された。しかし、それらの古墳群はその後の開墾によりほとんど失われてしまう。昭和7年(1932年)ブドウ園の整備中に現れた石槨から鉄製の直刀が出土し、これを契機として発掘調査が行われることとなった。この時発見されたのが高瀬山古墳である。昭和55年(1980年)高瀬山西側から温泉が湧出したことを発端として、周辺の開発が計画され、それに伴って遺跡の分布調査が行われた。それまで2地点のみが知られていたが12地点で遺構・遺物の集中地区が確認された。昭和57年(1982年)高瀬山J遺跡が調査され、昭和59~61年(1984年~1986年)高瀬山B・K・L遺跡が調査された。昭和62~63年(1987年~1988年)山形県教育委員会が高瀬山K遺跡を調査した。平成元年(1989年)東北横断自動車道酒田線(現:山形自動車道)建設が当地区に計画され、平成元年~4年(1989年~1992年)に分布調査が行われた。その結果1.6kmに渡って遺構や遺物が発見され高瀬山遺跡の範囲が拡大されることとなった。
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発掘史
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1893年(明治26年)には鳥居龍蔵による採集が行われ、1927年・1929年(昭和2・4年)には大山柏による調査があり、その調査結果を元にして山内清男が子母口式土器を命名した。その後も、1930年(昭和5年)に久本の医師・岡栄一を中心とする橘樹考古学会による発掘が行われ、また山内自身も調査に赴くなど、数多くの調査が行われていたが、戦災で資料が失われる、当事者が逝去するなどの事態に見まわれ、これらの調査結果がまとまった資料として残ることはなかった。 1957年(昭和32年)2月19日付で県の史跡に指定される。戦後には、盗掘が行われていたことを契機として1967年(昭和42年)に川崎市教育委員会のもと発掘調査が行われ、これが初めてのまとまった報告となった。その後も、1986年(昭和61年)に川崎市市民ミュージアムによる発掘も行われた。現在は子母口公園として整備され、現地保存されている。
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発掘史
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1913年(大正2年)に網走を訪れた青森県のアマチュア考古学研究者米村喜男衛が発見し、学界に報告した。発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った米村は、網走に住むことを決めて米村理髪店を開業し、傍らで遺跡の調査と研究に携わった。 大正時代には、この遺跡の文化が北方的な独特のものであるということ以上はわからなかった。1933年(昭和8年)に、オホーツク海の南沿岸に広がるオホーツク沿岸文化が、同時代の北海道の文化と別個のものとみなされるようになった。今日いうオホーツク文化である。 遺物を保存・展示するために、1936年(昭和11年)に網走に北見郷土館(現 網走市立郷土博物館)が建てられた。モヨロ貝塚は同年12月16日に国の史跡に指定された。1941年(昭和16年)・1942年(昭和17年)、海軍施設建設のため遺跡の一部が破壊され、緊急発掘を受けた。100体を超える人骨と多量の土器、石器、骨角器、金属器などが出土した。北海道大学医学部・大場利夫によって資料報告(『北方文化研究報告』北海道大学・1956年(昭和31年)および以降)されている。 史跡指定時28軒確認されていた住居址は、このため現在には約20に減った。戦後、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)にかけて大規模な調査が実施された。平成期はじめの発掘で約80基ほどの墓が密集して発見され、また大麦はじめ多くの栽培植物の種子が見つかっている。
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発掘史
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1988年(昭和63年)4月5日、東北工業大学の二ツ沢キャンパスの造成工事中に、穴と人骨が見つかった。後に人骨は数十年前のものと判明したが、横穴のほうは古代遺跡とわかり、仙台市教育委員会が緊急調査を実施した。4月7日、8日、11日から18日までの日程で、11基の穴が発掘調査された。そのうち1つは第2次世界大戦中の防空壕であった。調査を終了した当日に1基が見つかり、これをその日のうちに調査し終えた。 工事が再開された後、4月28日にまた横穴が5基見つかった。5月6日から16日の調査で、2次調査分は14基になったが、1次調査のときと比べ遺存状態は悪かった。横穴の端だけが検出されたものもある。これら調査の終了後、遺跡は破壊された。
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発掘史
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愛宕山に横穴が開口していることは、古くから地元で知られており、1912年(大正元年)発行の地図には北側のものが蝦夷穴として記入されている。 1936年(昭和11年)3月から道路開削のため山を削ったとき、多数の横穴とその中から人骨、直刀、須恵器が発見されたが、みな散逸したという。 愛宕山の横穴を初めて調査したのは清水東四郎で、1937年(昭和12年)の調査で南東斜面と北斜面にあわせて34の横穴があることを報告した。後に伊東信雄も一つの穴を実測した。 開口している横穴は、第2次世界大戦中に防空壕として使われ、その後は民家の物置きにされたりした。戦後、仙台市街の拡張にともない宅地造成で破壊されたものもあった。 愛宕大橋を架ける際、この橋に取り付く道路が山の端を削ることになり、仙台市が調査に乗り出した。1973年に南斜面に10か所の横穴を確認し、そのうち9か所を発掘調査した。このときは須恵器1個と人骨が出た。 1976年(昭和51年)4月21日、山の南東斜面付近で道路工事をしていると、突然穴が開き、中から人骨が見つかった。通報されて現場を調べた仙台南警察署は、古人骨ではないかとして仙台市教育委員会に連絡し、緊急発掘が行われた。これが装飾横穴古墳で、愛宕山横穴の中でももっとも重要なものである。玄室の壁画は重要なものと考えられたが、当時は保存の余裕がなく調査後に埋め戻した。現在のファミリーレストランビッグボーイ仙台愛宕店の横である。 1991年(平成3年)の9月と10月に、住宅建設前の発掘調査が行われた。このとき18基の横穴が地下から発見され、そのうちの15基が調査された。発掘以前に部分的に破壊されていたものが多かったが、直刀とガラス玉など若干の遺物が見つかった。
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発掘史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 07:21 UTC 版)
1803年に鳥居龍蔵により調査が実施され、その後、1927年秩父宮御台臨に際して柴田常恵が、1931年には県史編さん事業として、さらに1933年には東京帝国大学医学部解剖学教室が発掘調査を実施している。これらの調査によって、3軒の住居址と伸展葬3体を含む5体の人骨が検出され、縄文時代後期称名寺式・堀之内式・加曽利B式・後・晩期安行式土器が出土した。他に土偶・土版・耳飾等の土製品や石鏃・石斧・石棒等の石器類、貝輪や貝刃が出土している。
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発掘史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 05:00 UTC 版)
この地域は当初、1938年にシートン・ルロイド(英語版)によって調査された。テル・アル=リマーの遺跡は1964年から1971年までデーヴィッド・オーツ(英語版)の指揮でイギリス・イラク考古学学校(英語版)(British School of Archaeology in Iraq)のチームによって発掘された。前2千年紀初頭の巨大な神殿と宮殿、および新アッシリア時代の建造物が発掘されている。テル・アル=リマーは、前3千年紀におけるレンガ製アーチ(brick vaulting)の作例が存在することでも知られている。
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