発掘史と現状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 16:12 UTC 版)
郡山遺跡からは、後に郡山廃寺と名づけられた場所から、多賀城のものと似た瓦が見つかっていたが、長く調査の手がつけられなかった。1979年(昭和54年)に仙台市教育委員会が調査を開始し、廃寺とI期、II期の官衙を確認した。以後、数十次にわたる発掘調査が実施されている。 発掘当初は、陸奥国府説と並んで、名取郡の郡衙や、文献に名が出ない城柵ではないかとする推測もあったが、現在ではII期官衙を多賀城以前の陸奥国府とするのが定説である。1987年(昭和62年)には官衙遺跡の下層から弥生土器が見つかり、官衙以前にも集落があったことが示唆された。 遺構は、地表面から3~5m程度の深さに位置している。かつて一帯は水田地帯であったため、損傷を受けることはほとんどなかった。現在は市街地の下にあり、工事のときに小区画を調査するしかない。郡山遺跡一帯には高層建築が許可されていない。 現在、一部は長町副都心「あすと長町」の範囲に含まれ、土地区画整理事業及びそれに伴う発掘が行われている。隣接する遺跡「西台畑遺跡」(にしだいはたいせき:地元では「にしだいばたけ」と呼ばれることが多い)や長町駅東遺跡は、郡山遺跡に勤務していた人々が生活したものと考えられる住居跡などが発見・発掘されたが、旧国鉄長町レールセンター、および、旧国鉄長町貨物ヤード(共に既に廃止)の建設によると思われる損傷、ライフラインの埋設による損傷がみられた。 2006年(平成18年)7月28日に、遺跡の重要部分であり、その大部分が休耕田または空地となっている約4.3km2が「仙台郡山官衙遺跡群」として国の史跡に指定された。2007年(平成19年)7月26日には史跡範囲が追加指定された。
※この「発掘史と現状」の解説は、「郡山遺跡」の解説の一部です。
「発掘史と現状」を含む「郡山遺跡」の記事については、「郡山遺跡」の概要を参照ください。
- 発掘史と現状のページへのリンク