発掘前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:36 UTC 版)
中世以降忘れ去られてしまっていた秋田城跡について、その研究が行われるようになったのは、江戸時代の中期以降である。江戸時代の本草学者・著述家であった菅江真澄は、寺内地区の民家に長期滞在して聞き取りとフィールドワークを重ね、高清水の丘が秋田城の所在地であったと示している。ただし、菅江真澄以来明治期に至るまで、多数の研究者が考証を重ねて秋田城跡が高清水の丘にあると推定されながらも、実証的な裏付けを得る事が出来なかった。明治以降、秋田中学校教諭であり郷土史家でもあった大山宏による調査研究が重ねられ、その成果は後の発掘事業と史跡指定に結びつくものとなった。大山の研究は秋田魁新報社社長であり郷土史家でもあった安藤和風の協力を得るところとなり、安藤は国の史跡指定に向けて積極的なはたらきかけを行った。1924年(大正13年)には内務省の係官柴田常恵による初の現地調査が行われ、寺内大畑地区を中心に土塁跡を確認した結果、秋田城の推定範囲がより精確に絞り込まれることとなった。このような調査の進展を受けて史跡指定運動もより強まり、1935年(昭和10年)には文部省から荻野仲三郎が最終的な現地調査のため来秋し、そこでは大山ら地元研究者を交えた討論会を行っている。こうして文部省史跡調査会による承認を受けて秋田城跡は1939年(昭和14年)に国の史跡に指定、以後、学術調査や緊急調査が行われることとなった。
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