発掘史と現況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:29 UTC 版)
古墳と判明する以前の江戸時代から、地元では水田中の二つの地面の高まりを一塚(ひとつか)、二塚(ふたつか)と呼んでいた。特に言い伝えがあるでもなく、発掘の数年前から塚の上は畑として耕作されていた。 当地が名取郡茂ヶ崎村に属していた1906年(明治39年)4月6日に、地主の佐藤彌惣吉が一塚の東北部を崩して土を取ろうとしたところ、中から石棺が見つかった。石室内部の石棺には水が溜まっていたが、その中から副葬品が得られた。遺物は帝室博物館に収められ、石棺は銅駝坊陳列館に寄贈された。陳列館の閉鎖で石棺が一時行方不明になったが、現在では石棺と遺物の大半が帝室博物館の後身である東京国立博物館に、鳥文鏡が東北歴史博物館にある。 1918年にも墳面は畑になっていたが、後に崩され、1950年頃は萱場製作所の寄宿舎が建っていた。さらに後、周囲は住宅地に変貌し、近くに仙台市立長町中学校ができた。仙台市教育委員会が立てた案内板のほかに、かつての古墳の存在をうかがわせるものはない。
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