発見・発掘
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「ドーバー青銅器時代の船」の記事における「発見・発掘」の解説
1991年よりカンタベリー考古学財団(英語版) (Canterbury Archaeological Trust, CAT) の考古学者らと共同で、新たな道路(A20(英語版)のフォークストン(英語版)とドーバー間の拡幅)を建設していた Norwest Holst の建設作業員が、1992年9月28日、3500年前のものと思われる大きな先史時代の船を発見した。これは紀元前1500年頃、イギリスの中期青銅器時代にさかのぼるものとされた。 船は道路の下およそ6メートルに埋まり、その埋没地は建物の方向におよんでいた。建築物付近を極度に掘るのは危険過ぎると判断されたため、全長が未定であった船は、地下に残させなければならなかった。そして以前にも船全体を掘り出そうとした試みが不成功であったことから、船をいくつかの部分に切断して移動させた後にそれを組み立て直すことに決定した。船体は23片に切断した後、継ぎ目に沿って分離した断片など32片に分離された。およそ1か月におよぶ発掘の後、9.5メートルの船体が最終的に再生された。しかし、完成した船の実際の大きさについてはさまざまな見解がある。
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発見 発掘
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1988年(昭和63年)、圃場整備の際に掘立柱建物の遺構が発見され、「國厨(くにのくりや)」と書かれた墨書土器が出土したことから伊賀国庁跡と断定された。「國厨(くにのくりや)」と書かれた墨書土器は稲荷前A遺跡(推定相模国府跡)、周防国衙跡や薩摩国府跡でも発見されている。また、遺構の位置する小字が「国庁さん(こくっちょさん)」と呼ばれていることや、一帯が「府中」と呼ばれていること、明治時代の史料に柘植川北岸に伊賀国庁跡があるという旨の記述があることも根拠となった。遺構は3つの小川が合流する地点に隣接しているが、これは水利に適した場所を独占する意図があったと考えられている。南には、交通の要衝である東海道が通っていたとされる。 政庁跡と推測される遺構を囲む柱列は1辺40メートルの方形で、沿って溝が巡らされていた。国庁の範囲は、水田の高低差から東西200メートル・南北150メートルと推測されている。おおよそ飛鳥時代から存在していたとされるが、10世紀後半の土器が完形のまま残され、炭と共に出土したことから、この時期に廃絶されたものと考えられている。
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