甲骨文の発見・発掘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 16:24 UTC 版)
清の光緒25年(1899年)、当時、国子監祭酒 の地位にあった王懿栄はマラリアの発作に苦しみ、その特効薬として北京の薬屋で売られていた竜骨を服用していたが、その骨の上に刻されているものが古代文字であることを劉鶚と2人で発見した。王懿栄は古代金石学にも通じた学者で収蔵家であり、費用を惜しまずその竜骨を買い求めたが、翌年、義和団事件の責めを負って自殺し、彼の竜骨は劉鶚の手に託された。光緒29年(1903年)、劉鶚は王懿栄旧蔵の竜骨と私蔵の竜骨5000片のうち、1058片の拓本を精選し、『鉄雲蔵亀』と題して刊行したため、甲骨文が初めて学界の注目されるところとなった。当時、その竜骨の発掘場所は骨董商以外には知られていなかったが、数年後、殷墟の彰徳の西北にある小屯と呼ばれる村落一帯から出土していた亀甲や獣骨が竜骨の正体であることが確認され、その後、甲骨の発掘が盛んに行われた。
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