山内清男
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山内 清男(やまのうち すがお、1902年1月2日 - 1970年8月29日)は、日本の考古学者。学位は、文学博士。東京大学講師。成城大学教授。
- ^ 佐藤達夫「学史上における山内清男の業績」『山内清男集』築地書館 1974年→佐原真「山内清男論」(佐原真『佐原真の仕事1 考古学への案内』岩波書店 2005年)
- ^ 尚、田中は開成中学校に進学したが、同期に酒詰仲男がいた。
- ^ a b c d 佐原真「山内清男論」
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正8年至大正9年』東京帝国大学、1920年3月29日、(61)頁。NDLJP:940170/362。
- ^ 1921年の田中の日記には山内のところへは刑事が来た相だ。カービンスキー(=山内)だけに人一倍あわててゐるだらう。とある。
- ^ 佐藤達夫1974「学史上における山内清男の業績」『山内清男集』、伊東信雄1977「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」『考古学研究』第24 巻第 3・4 号
- ^ 伊東信雄「山内博士東北縄文土器編年の成立過程」
- ^ 『ミネルヴァ』第1巻第2号~同巻第6・7合併号に、喜田貞吉と山内清男との間で日本の石器時代終末期に関する論争
- ^ 甲野・江上・後藤・山内・八幡 「座談会 日本石器時代文化の源流と下限を語る」
- ^ 芹沢長介「日本最古の文化と縄文土器の起源」 『科学』1959年8月号
- ^ 例えば、中山平次郎「貝塚土器の席紋と其類似紋」「貝塚土器の縄紋と古瓦の縄紋」や杉山寿栄男 『日本原始繊維工藝史 原始篇・土俗篇』
- ^ のちに山内は『先史考古学論文集』第四冊(1967年)で、この論文を書いたのは長谷部言人であるとした上で、改めて自分の書いた当初の論文である「石器時代土器底面に於ける稲籾の圧痕」を附論として発表している。
- ^ この主張は後に唐古・鍵遺跡や登呂遺跡・板付遺跡の発掘調査で否定されたが、戦後は縄文時代開始年代に傾注した山内は特に何も述べていない。
- ^ 田村晃一「山内清男論」・佐藤達夫「学史上における山内清男の業績」、もっとも山内の研究が主に農耕具の使用法についてであったのに対し、森本の研究は農耕具(特に石包丁)の分布が中心であったという違いがある。
- ^ 砥石の一種で、断面が半円形をしており水平面に溝を有する。山内は、こうした砥石が2個ずつ出土する点や、射手の墓場に副葬されている点、インディアンなどの民族例から、溝に矢の柄を挟み、研磨してまっすぐにする道具だと考えた。「矢柄研磨器と有溝砥石の関係」参照。
- ^ 芹沢長介「旧石器時代の終末と土器の発生」
- ^ 加藤晋平「北東アジアの単条有溝砥石について」
- ^ 宮下健司「有溝砥石」
- ^ この主張が明文化されたのはかなり後のことで、1964年の「日本先史時代概説」になってからのことである。それまでは口頭による主張であった。
- ^ a b c 渡辺誠『縄文時代の漁業』
- ^ 松井章「「サケ・マス論」の評価と今後の展望」
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