弥生文化における農耕の解明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:24 UTC 版)
「山内清男」の記事における「弥生文化における農耕の解明」の解説
当時はトムセンの三時代区分法によって、原始時代は石器時代・青銅器時代・鉄器時代に分類されており、農耕が始まったのは青銅器時代からであり、石器時代に農耕が行なわれていなかったというのが定説であった。山内は、東北地方の土器を収集する過程で、縄文土器の特徴を持つ弥生式土器の底部に籾の痕が残っているのを発見し、1925年に「石器時代にも稲あり」として発表した。1934年には「稲の刈り方」を発表して、中国でのアンダーソンの農耕具研究を参考に、当時からイヌイットの肉切包丁に類似することから石包丁と呼ばれていた石器に、鎌としての可能性を指摘して、その際にどのような使用法が考えられるかを提示した。さらに、1936年には「磨製石刃石斧の意義」を発表し、弥生式土器に伴う磨製石斧が斧ではなく、土掘具ではないかと指摘した上で、弥生文化における農耕は道具と共に伝播したものだと主張した。翌1937年、山内は「日本に於ける農耕の起源」を発表して、縄文土器に伴う打製石斧や弥生土器に伴う磨製石斧は鍬とする一方で、弥生時代における農耕は縄文時代における女性の採集活動の延長に過ぎず、その規模はアイヌや台湾原住民におけるHackbau程度であり、灌漑が伴う本格的な農耕が始まるのは古墳時代以降だと主張した。これは、当時森本六爾が山内に影響されて自らの主催する雑誌『考古学』上で農耕特集を連発し、弥生文化にも農耕があったと主張する中で、山内のプライオリティーを無視していたからだとも言われている。
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