縄文土器編年と『日本先史土器図譜』の刊行
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「山内清男」の記事における「縄文土器編年と『日本先史土器図譜』の刊行」の解説
1937年1月、原始文化研究会を先史考古学会に改称し、雑誌『先史考古学』の発刊を始める。その創刊号で、山内は自らの理論を「縄紋土器型式の細別と大別」で提示し、当時日本各地で判明していた縄文土器型式の編年的な位置付けについて「縄紋土器型式の大別〔と細別〕編年表」として発表した。当時、記紀の記述あるいは縄紋土器の内部に0宋銭が包含されていた事例などを根拠に、東日本(特に東北地方)では石器時代が西日本の鎌倉時代まで続いていたという主張があった中で、東北地方に分布する大洞式土器(一般には亀ヶ岡式として知られる)と、それよりも西に分布する縄文土器の共伴関係などを追跡することで、縄文時代は全国的にほぼ同じ時期に終末を迎えるとした山内の研究は、当時の考古学界に大きな衝撃を与えた。 さらに山内は、全国の土器編年をより確実なものにするために、それまで古今伝授的に供覧していた型式の基準となる土器(標式、標本)の写真を一般にも公表することを考え、1939年7月から『日本先史土器図譜 第一部・関東地方』の刊行を開始した。第一部は第1輯「十王台式」(これは弥生土器である)から1941年8月刊行の第12輯「子母口式」まで続けられた。山内は『第二部・東北地方』の刊行準備を進めていたが、準備中に印刷所が企業整理・鉄材回収で閉鎖され、さらに仙台に疎開している間に1945年5月の空襲で写真乾板(大半が未発表)を預けていた夫人の実家(小石川)、土器を保管していた芹沢長介宅・大山史前学研究所(渋谷区)が全焼してしまい、以降の刊行は不可能になってしまった。
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