同時代の反ファシズム運動
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「革命作家芸術家協会」の記事における「同時代の反ファシズム運動」の解説
国際革命作家同盟のフランス支部として結成された革命作家芸術家協会は、共産党の文化政策との関わりにおいて活動を開始すると同時に、ソ連の文化政策とも連携していた。ソ連ではフランスで革命作家芸術家協会が結成された翌月の1932年4月23日にソ連共産党中央委員会の決議でこれまで存在した文学団体がすべて解体された後、1934年8月にモスクワで開催された第一回ソビエト連邦作家大会においてソビエト連邦作家同盟が結成された。この大会にはフランスからアラゴン、ニザン、アンドレ・マルロー、ジャン=リシャール・ブロックらが参加した。この時期は、ソ連が対外政策を大きく転換させた時期に相当する。1933年にヒトラー内閣が成立すると、ソ連は日独のファシズム国家との戦いのために英米資本家や社会主義者や社会主義者と協力して統一戦線を結成する方針に転じ、1934年に国際連盟に加盟、1935年のコミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線の結成を提案することになるからである。 反ファシズム運動の高まりはフランスにおいても同様であり、すでに1932年にバルビュスとロマン・ロランが「反ファシズム国際委員会(Comité antifasciste international)」を結成し、世界各国の知識人に「国際反戦会議(Congrès mondial contre la guerre)」の開催を呼びかけ、同年8月にアムステルダムで開催された「反帝国主義戦争国際会議」として結実した。さらに、1933年の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)によるドイツ制覇に連動して、アクシオン・フランセーズなど共和制打倒を目指す右派・極右勢力が民衆を扇動して起こした暴動(1934年2月6日の危機)を受けて左派勢力が結集し、1934年3月5日に反ファシズム知識人監視委員会(民族学者のポール・リヴェ(フランス語版)が会長、哲学者・作家のアランと物理学者のポール・ランジュヴァンが副会長)を結成し、翌1935年6月の人民戦線の結成につながった。同じ1935年6月には、ファシズムから文化を守ることを目的に、バルビュス、ロマン・ロラン、マルロー、ジッド、アラゴンらを中心に第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)が開催され、ソ連からイリヤ・エレンブルグ、イサーク・バーベリ、ドイツからハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリらが参加した。革命作家芸術家協会は、プロレタリア文学・革命文学の推進力であっただけでなく、こうした反ファシズム運動を主導し、会員の多くが特に反ファシズム知識人監視委員会にも参加していた。 一方、上記「1933年初頭の主な会員」にはシュルレアリストが多いが、同年、ブルトン、クルヴェル、エリュアールが共産党から除名され、1935年の第1回文化擁護国際作家会議の直前にソ連代表のエレンブルグとブルトンが対立し、シュルレアリストは同会議からも追放されることになった。唯一、すでにハリコフ会議以降、社会主義リアリズムに傾倒し、シュルレアリスム運動を離れることになったアラゴンが(「アラゴン事件」参照)、革命作家芸術家協会のみならず戦間期の知識人による反ファシズム運動およびナチス・ドイツ占領下の知識人による対独レジスタンス運動で主導的な役割を担うことになる。
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