同時代の作曲家たちとの交流
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「ヨーゼフ・メルク」の記事における「同時代の作曲家たちとの交流」の解説
1825年、マイゼーダーとメルクが組んでいた弦楽四重奏団は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンから『弦楽四重奏曲第12番』の演奏依頼を受けた。特に甥のカール・ヴァン・ベートーヴェンはメルクを高く評価しており、ヨーゼフ・リンケに比べてメルクの方が優れているとルートヴィヒに書き送っている。また、ルートヴィヒもメルクが出演するコンサートについて自身の会話張に書き記した。なお、ベートーヴェンの葬儀の際、メルクは棺のそばで松明を掲げた。 また、メルクは作曲家のフランツ・シューベルトと親交を結んでいた。1822年4月15日、ウィーンのミリノーテン広場にある会議所のホールで開催されたメルクの演奏会に際し、シューベルトはチェロ演奏の合間の曲として男声四重奏曲『精神と愛』を作曲している。なお、この曲はバルト、ティーツェ、ネエブゼ、ヨーハン・ネストロイによって歌われた。 さらに、フレデリック・ショパンは2度目のウィーン滞在中にメルクと知り合い、1829年にチェロとピアノのための『序奏と華麗なるポロネーズ』を作曲し、メルクに献呈した。ただ、作曲家自身はこの曲について「サロンやご婦人たちのための、キラキラ輝く子供だまし以上のものではない」と述べている。なお、ショパンはサロンでメルクと共演することもあり、「ウィーンで1番のチェリスト」などの賛辞を手紙に記したほか、ヴァイオリニストのスラヴィックを交えてピアノトリオを結成したいとも述べた。 また、作曲家・ピアニストのフランツ・リストは、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、およびメルクとともにベートーヴェンの『ピアノ三重奏曲第7番「大公」』を演奏した。なお、リストは演奏会デビューをする前からマイゼーダーやメルクに演奏を聴いてもらっていた。
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