飛行機械
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 00:14 UTC 版)
ケイリー卿は今日では有人グライダーの実験など、航空における先駆的な研究で記憶されている。彼は3部からなる歴史的著作"On Aerial Navigation" (1809-1810) (空中航行について)を書き、ニコルスンの"Journal of Natural Philosophy, Chemistry and the Arts"に発表した。従来は、ケイリーが固定翼の着想を得たのは有名な「銀製メダルのスケッチ」を根拠に1799年だとされていたが、2007年、王立航空学会のロンドン図書館からケイリーの学生時代のノートが発見され、そこにあった複数のスケッチからケイリーが学生時代から飛行理論に関する考えを温めていたことが明らかになった。これらの絵を根拠に、ケイリーが1792年ごろには傾いた固定翼面による揚力の発生という概念を持っていた、との主張もある。空気中を運動する物体に働く抗力と、その速度および迎角との関係を知るため、彼はその後"whirling-arm apparatus"(回転腕装置)を作っている。ケイリーはまたブロンプトン邸宅の吹き抜けで様々な形状の回転翼を試験している。これらの科学的実験により、ケイリーはキャンバーのついた能率的な翼型を作り出し、そして航空機に働く4つの力(ベクトル)を認識するに至った。4つの力とは推力、揚力、抗力、重力である。彼はロール方向の安定性を保つためには上反角が重要であることも発見し、熟考の末、多くの模型の重心を翼の下に置いた。これらの力学的考察はハング・グライダーの発達に影響を与えた。それ以外にも飛行の様々な理論面を研究し、今日ではケイリーは最初の航空工学者だと認められている。 1804年までには現代の飛行機と同様のグライダー模型を作った。大きな単葉の翼面が機体の前部にあり、小さな水平・垂直尾翼が機体後部にあった。1849年以前のある年に、ケイリーは「ひれ」で推進される三翼機を設計・製作し、10歳の少年(名前や素性は不明)を載せて飛ばした。後年、孫のジョージ・ジョン・ケイリーと住み込みの技術者トーマス・ヴィック(Thomas Vick )の手を借り、彼は大型のグライダー(これも恐らくは「ひれ」を備えていた)を開発し、1853年にブロンプトン谷(Brompton Dale )を越えて飛ばしている。これの搭乗者、すなわち世界初の成人の飛行士は、ケイリーの御者か召使、もしくは執事だと言われている。ギブズ=スミスは、それをケイリーの使用人ジョン・アプルビイ(John Appleby )という者だとしているが決定的な証拠はない。1855年の『ブリタニカ百科事典』第8版の9巻に曖昧な記述があるが、これが同時代の報告としては最たるもので、当時の権威がケイリーをどう捉えていたかを知ることができる。リチャード・ディー(Richard Dee )によるケイリーの伝記"The man who discovered flight: George Cayley and the first airplane"(2007) は、最初のパイロットはケイリーの孫ジョージ・ジョン・ケイリー(1826年-1878年)だと主張している。 1853年の機体のレプリカがデレク・ピゴット(Derek Piggott )によって作られ、かつて実験の行なわれたブロンプトン谷で1974年および1980年代中期に飛ばされた。このグライダーは現在ではヨークシャー航空博物館(Yorkshire Air Museum )に展示されている。また、別のレプリカが2003年に同地で飛行した(パイロットはアラン・マクホワーターとリチャード・ブランソンであった)。
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