1980年代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:40 UTC 版)
「日本におけるゲーム機戦争」の記事における「1980年代中期」の解説
翌1984年になるとファミコンはサードパーティーの参入が始まり、多数の良質ソフトを生み出し、ファミコンがブームの兆しを見せはじめていた。ファミコンが電子ゲームに代わってコンシューマーゲームの主役となり、前年に登場した他社のテレビゲーム機の多くが次第に駆逐されていった。しかし当時のROMカセットはまだ容量も少なく比較的簡素なゲームが多かった時代であり、ファミコンの品薄も手伝って、多少性能の劣るハードでも売上を伸ばしたメーカーもあった。この年にセガはSG-1000のコントローラーの操作性を向上させたマイナーチェンジモデルSG-1000IIを発売。一方、エポック社も同時期にファミコンをしのぐ128スプライトの性能を謳うスーパーカセットビジョンを発売。両社ともにファミコンブームに乗る形で一定のシェアを獲得し、この頃はこの3社のシリーズが築いた時代と言われる。しかしファミコンは翌1985年9月に発売した『スーパーマリオブラザーズ』がキラータイトルとなって本格的なブームが到来。1985年末の年末商戦には品切れとなる売れ行きを見せて普及台数が600万台を突破、急激にシェアを拡大して他の競合機を突き放した。セガは直後の10月に画面表示機能を大幅に向上させたセガ・マークIIIを発売したが、ファミコンの勢いを止めることはできなかった。翌1986年、任天堂は低コストでソフトを供給可能な周辺機器ディスクシステムを発売させる(一体型のツインファミコンもシャープから発売)が、ROMカートリッジの大容量化とセーブ機能の搭載、単価の安さが販売店に嫌われたことや著作権の任天堂との共有がサードパーティの支持を得られず、今後自社のソフトは全てディスクシステムでリリースするとの任天堂の公約も破棄されて、失敗に終わった。1987年になるとスーパーカセットビジョン用ソフトとSG-1000用ソフトが相次いで終息し、残存ハードはファミコンとマークIIIに絞られた。また、この年にセガはマークIIIのFM音源ユニットと連射装置を搭載させたマイナーチェンジモデルマスターシステムを発売した。 SG-1000II スーパーカセットビジョン セガ・マークIII ディスクシステム マスターシステム ツインファミコン
※この「1980年代中期」の解説は、「日本におけるゲーム機戦争」の解説の一部です。
「1980年代中期」を含む「日本におけるゲーム機戦争」の記事については、「日本におけるゲーム機戦争」の概要を参照ください。
1980年代中期(携帯型)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:40 UTC 版)
「日本におけるゲーム機戦争」の記事における「1980年代中期(携帯型)」の解説
1980年代の中ごろになるとファミコンをはじめとする据置き機の普及により、携帯ゲーム機は冬の時代を迎えるが、その間も細々と展開が続けられた。 1985年になるとエポック社からゲームポケコンが発売され、日本国内の本格的なカートリッジ式携帯型ゲーム機の草分的存在となる。しかし当時はまだサードパーティの制度は一般的ではなく、自社製作のゲームしか発売されなかった。ソフトの数もあまり増えず、結果的に短命に終わった。 ゲームポケコン
※この「1980年代中期(携帯型)」の解説は、「日本におけるゲーム機戦争」の解説の一部です。
「1980年代中期(携帯型)」を含む「日本におけるゲーム機戦争」の記事については、「日本におけるゲーム機戦争」の概要を参照ください。
1980年代中期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 22:10 UTC 版)
「コクトー・ツインズ」の記事における「1980年代中期」の解説
1983年のセカンド・シングル「Peppermint Pig」発表後のツアーが終わって、ウィル・ヘッジーがグループを去った。バンドの最初の3作は、ヘッジーのリズミカルなベース・ライン、ガスリーのミニマリスティックなギター、フレイザーのボーカルの3つで成り立っていたが、2枚目のアルバム『ヘッド・オーバー・ヒールズ』では、後の2つだけに頼らざるを得なくなった。これはコクトー・ツインズの特徴的なサウンドを成長させることになった。このころから三拍子の曲が多くなる。フレイザーの声は幽玄と粗野が入り交じり、ガスリーの強いエフェクトがかかったギターと結びついた。前作とはまったく異なったものになったが、『ヘッド・オーバー・ヒールズ』はマスコミにも一般にも好評で迎えられた。 1983年に、コクトー・ツインズは4ADのディス・モータル・コイルのプロジェクトに参加し、そこでのガスリーとフレイザーによるティム・バックリィの「Song to the Siren」のカバーは大ヒットした。また、この作業中に彼らはサイモン・レイモンド(Simon Raymonde)に出会い、彼はこの年のうちにベースとしてグループに加わった。サイモンが加わったコクトー・ツインズは、サード・アルバム『トレジャー - 神々が愛した女たち』(1984年)、シングル「Aikea-Guinea」(1985年)等の評価の高い名作を続々とリリースした。 レイモンドは、ディス・モータル・コイルのセカンド・アルバムに関わっていたため、1986年のコクトー・ツインズの4作目のアルバム『ビクトリアランド』のレコーディングには参加していない。彼は、同年にハロルド・バッドと共作したアルバム『ムーン・アンド・メロディーズ』では、グループに戻っている。 コクトー・ツインズは、世界的には4ADにとどまっていたが、1988年にアメリカでの配給に関してついにメジャーレーベルのキャピトル・レコードと契約を結んだ。また、この年の10月には5枚目のアルバム『ブルー・ベル・ノウル』をリリースした。
※この「1980年代中期」の解説は、「コクトー・ツインズ」の解説の一部です。
「1980年代中期」を含む「コクトー・ツインズ」の記事については、「コクトー・ツインズ」の概要を参照ください。
- 1980年代中期のページへのリンク