1980年代中盤:超獣コンビ、ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢との闘い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:21 UTC 版)
「ジャンボ鶴田」の記事における「1980年代中盤:超獣コンビ、ウォリアーズ、ジャパンプロレス勢との闘い」の解説
「プロレス界のキングコング」と称されたブルーザー・ブロディやハンセン、ロード・ウォリアーズといった大型外人レスラーとの戦いがメインとなっていた1980年代中盤、大型の外人と戦っても見劣りしないレスリング技術は、後に全日に参戦した長州力、ブロディが新日本に移籍した後で対戦したアントニオ猪木らの戦いと比較される中で評価されるようになった。相手レスラーからの評価も高く、戦った選手のほとんどは鶴田の運動能力、身体的能力を絶賛している。 新日本のエースで、1984年末から新日本を退団しジャパンプロレスの一員として全日本に参戦した長州力と、1985年11月4日に大阪城ホールでシングルマッチを行う。結果は、60分フルタイムドローで終わった。鶴田はこの一戦で、リング中央でどっしりと構え、自身の周りを長州が動き回るようにファイトすることを意識し、引退後日本テレビのインタビューで「あれは僕の作戦勝ちでしょう」と語っている。これは馬場がエース候補生たちに必ず教えていた心構えであり、また、自分が格上のレスラーであると印象付けられる上にスタミナの消費も少ないという効果を狙ったもので、鶴田が王道プロレスを体現した試合として名高い。一方、長州は対戦前には鶴田のことに対し「あれはぬるま湯に浸かっちゃってるんだよね」「あいつは本物のプロレスラーなんかじゃないんだよな。ただのサラリーマンレスラーでしかないんだからね。あれは」と散々酷評していたが、対戦後は鶴田に対し一目置くようになり、マスコミに対し「ボクシングのような判定制だったら、(自分の)負けだったよ」と語り、以降、鶴田を評価する発言を度々行うようになる。この評価は鶴田との対戦後も長年に渡り一貫しており、2012年10月5日の長州と高田延彦とのトークショーにおいても、「鶴田先輩は本当に凄かったですね」と、アマレスの先輩である鶴田に対する敬意を素直に表現している。長州とのこのシングル対決は1985年のプロレス大賞の年間最高試合(ベストバウト)に選出されている。 しかし、この時期の鶴田はシングル戦線では苦戦していた。1985年4月と1987年3月にフレアーのNWA王座に挑むが奪取に失敗し、1986年にはAWA王座再戴冠を目指し当時の王者スタン・ハンセンに3度挑むがこれもすべて奪取失敗、同年7月の敗戦では自らのインター王座も奪われた。しかし同年10月には奪回に成功している。世界最高峰クラスの王座を奪取した選手としては、不調気味の戦績といえる。
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