ペレストロイカ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:16 UTC 版)
「エストニアの言語」の記事における「ペレストロイカ時代」の解説
エストニア在住者の民族別言語習得比率(1989年)エストニア語修得者 ロシア語修得者母語第2言語計母語第2言語計エストニア人98.9% 0.6% 99.6% 1.0% 33.6% 34.6% ロシア人1.3% 13.7% 15.0% 98.6% 1.1% 99.7% ウクライナ人1.2% 6.9% 8.1% 54.5% 39.7% 94.2% しかし、同時期のソビエト連邦の崩壊に際して1988年11月にエストニア最高会議 (et) は主権宣言(ロシア語版)を発し、12月には憲法改定によってエストニア語を「国家語」と規定。翌1989年1月18日にはペレストロイカ期においてソ連構成共和国最初の「言語法」を採択した(憲法採択時の言語法案について、賛成329票・反対10票・棄権6)。 メンバー20人のうちロシア人を3人のみ含む作業部会によって策定されたこの言語法により、エストニア語は国家語とされ、ロシア語は「連邦の交流」に必要な言語とされ、その他の少数語に対しても文化を発展させる権利が認められた。ロシア人の多くは、ロシア語に「民族間交流語」の地位が与えられなかったことに強く反発した。しかし、ロシア語に法的地位を認めてはロシア語優位の現状を変えることはできない、として、政府はロシア人の要求を拒否した(これは、リトアニアと並んでソ連の中で最も強硬な態度であった)。 6月には国家労働・社会問題委員会が「エストニア・ソビエト社会主義共和国における言語運用能力要求の適用に関する手引き」を作成し、職場ごとに必要とされるエストニア語能力を規定した。この手引きは大統領・政府メンバー・オンブズマン・裁判官・心理士などの専門職に流暢なエストニア語能力を要求するもので、ロシア人の政界進出にとっては著しく不利な内容であった。職業別の言語能力確保は4年後の1993年2月1日が期限とされ、政府は成人教育用に33の「言語センター」を設置し、希望者に対するエストニア語の教育と言語能力テストも実施した。1990年には、言語政策の策定・言語法の遵守の促進と監督・不履行への処罰を受け持つ言語監督庁(英語版)が設置された。 言語法制定以降、公式資料はロシア語優先から二言語ないしエストニア語での作成へと転換し、ロシア語や二言語による看板・標識・外国語風の企業名は公的空間から一掃された。しかし、政府広報紙はロシア語でも発行され続け、地方行政ではロシア語のみで運営された地域も残された。法廷や行政機関でも個人はロシア語の使用が許可され、ロシア語のラジオ放送も国内全土で聞くことができた。成人に対するエストニア語教育の経験不足からその使用は浸透せず、言語能力テストも不適切な水準であり何ら実用的な結果を残せなかった。そもそもこの段階の言語法は、ロシア人最高会議議員に配慮したこともあり、その企図はロシア人のバイリンガル化であってエストニア語による一元化ではなかった。
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