弾圧の度合いの濃淡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)
「ロシア正教会の歴史」の記事における「弾圧の度合いの濃淡」の解説
ソ連時代を通じてロシア正教会は過酷な弾圧の下にあったが、その度合いは一様ではなかった。先述したように腐敗していたロシア正教会につき、当初ボリシェヴィキ・ソ連政府は弾圧を加えればあっさり瓦解し消滅すると考えていたのだが、多数の致命者を出してもなお正教会の信仰が消滅しないことにみられた強固な信仰の存在という現実を目の当りにして、一定程度の宥和策をとる方向へ方針転換する必要が認められたからであった。ただし宥和策といってもあくまで相対的なものであって、教会が抑圧の対象であることには変わりなかった。 1943年のナチス・ドイツの侵攻に対してソ連人民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていた総主教の選出を認めた。この時選出されたのがセルギイ・ストラゴロツキー総主教である。それまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。 だがスターリンの死後、フルシチョフが再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することはなかった。 このように、ソ連邦時代は確かに統制の程度に濃淡はあったものの、総じてロシア正教会にとっては受難の時代以外の何物でもなかった。神父は聖堂での奉神礼の中で行われるもの以外には説教を禁じられた。埋葬式の際にロシアに伝統的であった、聖歌隊と司祭が信徒達を先導して聖堂から墓地まで聖歌を歌いつつ永眠者の棺を運んで行進するという習慣などは勿論認められず、墓地における埋葬の際には司祭は祭服の着用を聖堂外では許されておらず、墓地において最後の祈りを捧げることも許されなかった。出版物には厳重な検閲が行われた。全ての宗教を弾圧するソ連にあって、計画経済の下で聖書や祈祷書・聖歌譜の印刷などに割り当てられる資材はごく僅かであり、聖職者や神学生達は限られた印刷物を使いまわしたり先人からのお下がりを貰い受けたりするなどして物理的不足をしのいだ。勿論当局に対する批判は許されず、スパイも活用した秘密警察によって一般社会と同様、教会は監視を受け続けた。 他方で、弾圧を緩和して信徒を守るため、ソ連当局に対して一定の協力を行った、あるいは強制された聖職者達がいたのは事実である。これには「やむをえない」面もありそのためにロシア正教会は存続することができたのは確かだが、同時に「当局との癒着」の疑義も生まれてしまうこととなった(事実、癒着していた聖職者もいた)。この疑義は現在に至るまでロシア正教会への不信感の源となっており、ロシア正教会自身にとっても解決の容易でない頭痛の種となっている。 弾圧・抑圧は、ペレストロイカ時代に至ってようやく緩和された。 ただし、このような弾圧時代においても一般の正教徒から抵抗が全く無かったわけではなく、ピアニストであるマリヤ・ユーディナのように、半ば公然と体制に対して正教徒としてのアイデンティティを表明し抵抗した者もいた。
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