弾圧の背景
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この会昌の廃仏政策が行われた背景としては、808年から849年にかけて長期間起こった政争である牛李の党争や、また、当時脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙ったともいわれる。ほか、周辺の諸国家との関係においても、モンゴル高原の回鶻(かいこつ、ウイグル)、チベットの吐蕃などの分裂が起こっており、対外勢力の動揺も弾圧を後押ししたと考えられている。 会昌の廃仏の5年前の840年には回鶻で内紛がおき、回鶻宰相の句録莫賀(キュリュグ・バガ)が、黠戛斯(かつかつし、キルギス)10万騎の力を借りて、回鶻に侵攻し、回鶻可汗国の第13代可汗㕎馺特勒を殺害、回鶻は崩壊している。キルギス可汗の阿熱は、その後もウイグルの残党討伐を続け、848年にはウイグルの残部は壊滅した。
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弾圧の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/09 04:50 UTC 版)
アッバース朝初期に頻繁に見られた弾圧の理由を明確にするのは容易でない。ザンダカ主義は、イスラームと、その信者の共同体と、アッバース朝国家に対する脅威とみなされた。8世紀の時点ではまだ、イスラーム的な規範は発展途上であり確立されていない。カリフの支配権が及ぶ広大な版図の中で、イスラーム教徒はマイノリティにとどまっていた。改宗した者であっても、そのイスラーム化は「不完全」であると認識されていた。そして、改宗者の多くはかつてマニ教徒であった者たちであり、アッバース朝初期においてマニ教は、長い迫害の中で、伝道する思想を魅力的に発展させたことにより勢力を一時的に回復させてもいた。かくしてマニ教徒はイスラーム教側の宗教エリートやアッバース朝国家に対する脅威として認識されるに至り、「神学上解決させることのできない問題を設定する」「大衆を前にした議論において聴衆を味方につけるのがうまい」「世界観を知的なものに見せかける護教論に長ける」といったいわれなき批難を受けるようになった。
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