弾圧事件と晩年
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1940年(昭和15年)は紀元二千六百年の記念の年であった。その陰で日中戦争の意義を問うた衆議院議員の斎藤隆夫が除名処分に遭ったり、古代史研究の権威・津田左右吉の東京帝国大学講師就任が右翼団体の圧力で取りやめになるなど各界で穏やかならぬ動きがあった。その動きは俳句界にも忍び寄り、2月15日(『特高月報』上では2月14日)に京都府警察部は『京大俳句』の幹部8人を一斉に逮捕した。これが、新興俳句弾圧事件の第一次逮捕である「京大俳句事件」である。 当時この事件は新聞で報道されず、俳句雑誌にも掲載されなかったため、情報が正確に伝わらず、俳句界を噂話が駆け巡った。関西での事件であったが、東京にも波及するのではないかという不安や、東京は大丈夫だろうという楽観視が在京の俳人の間で広がった。この頃青峰は『土上』にて「東亜新秩序建設の新体制に即応する俳句報国」という当世の時流に乗った文章を発表し、伊東月草が「日本俳句作家協会」の結成を呼び掛けると、『俳句研究』誌上で賛同の意を表明した。そうした立場の転換ともいえる行動に出た背景には、身に迫る危険を感じ、早稲田大学講師・国文学者としての立場・地位を守りたい、という気持ちがあったからだとされる。しかし時すでに遅く、1941年(昭和16年)2月5日、第四次検挙により、弟子の東京三・古家榧夫を含む12人とともに逮捕された。「『土上』に進歩的思想あり」とされ、治安維持法で検挙されたのである。 警視庁特別高等警察と早稲田警察署(牛込警察署の前身)の刑事3人が逮捕のため牛込区若松町(現在の新宿区若松町)の自宅にやってきた時、青峰は風邪で寝込んでいた。病気かつ老いた身の青峰を刑事は容赦なく連行し、それが病をこじらせることとなった。留置場生活から約半月、肺結核が再発、午前四時に喀血するも何らの手当はなく、昼過ぎになってようやく東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)から医師が呼ばれ、「相当の重患」と診断を受け、夕方に寝台車で帰宅を許された。この時、這うことさえできないほどの体となっていた。 この検挙事件を虚子の門弟らは「秋桜子の警告を無視し、新興俳句派の若造たちにおだてあげられていい気になっていた天罰だ」と囁いたという。そして主宰者の青峰と主要作家の検挙により、『土上』は廃刊に追い込まれた。 青峰逮捕の背後には、息子の洋一が編集を担当し、当時150万部を発行する日本最大の雑誌『家の光』の俳句欄の選者の座を小野蕪子が青峰から奪うために暗躍した、という見解がある。洋一は父の逮捕後、秋桜子と富安風生に選者を要請するも断られ、風生の推薦した蕪子が選者となった。 釈放後、自宅での療養に入るも、戦時中で十分な医薬品・栄養・燃料を得られなかったばかりでなく、門下生からは連座を恐れて絶縁を申し入れられ、見舞いの客もほとんどないという不遇の生活が続いた。結局、病状が好転することなく、釈放から3年が経過した1944年(昭和19年)5月31日に62歳で亡くなった。亡くなるまで一度も立つことができなかった。「青峰忌」は夏の季語となった。 青峰死去の報を受け、弟子の東京三(秋元不死男)は葬儀に馳せ参じたが、その席に俳句の関係者はほとんどなく、近所の住民を除けば、加藤武雄・本間久雄・日高只一らが焼香した程度で弔問者も少なく葬儀は閑散としていた。 師であった虚子は葬儀に参列しなかったが、お悔やみ状と香典を送った。遺族の中からは、『ホトトギス』同人から青峰の名が削除されたことを根に持ち、受け取りを拒否すべきだという意見もあったという。
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