弾圧の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 07:20 UTC 版)
浄土真宗禁制に乗り出したのは人吉藩(相良氏)の方が早く、弘治元年(1555年)に遡る。この年、相良晴広は分国法「相良氏法度」に、一向宗(浄土真宗)の禁止を追加した。その要因はいまだ明確ではないものの「人吉市史」によると、大永6年(1526年)7月に真幸院(現・宮崎県えびの市及び小林市)を治めていた北原氏の人吉城攻めに原因があるのではないかとしている。北原氏はこの年、相良氏の内訌に乗じて人吉城に攻め入ったのであるが、その際に一向宗伝道の根拠寺である清明寺(人吉市七字町)と関係しており、禁令に至った要因にそれがあるのではないかと記述している。北原氏が一向宗と関係していたとする史料として、『飯野郷土史』の記述であるが、北原庶流にして飯野郷の領主であった北原兼孝は「一向宗とならねば打ち殺す」として領民に入信を強要したとしている。 慶長2年(1597年)に島津義弘が発した二十か条の置文によって薩摩藩全領内で一向宗が禁制となったが、それ以前の16世紀中頃には島津家領内で弾圧が始まっている。加賀一向一揆や石山合戦の実情が伝えられ、一向宗が大名によって恐れられたことや、島津忠良などの儒仏に篤い武将にとって、忠を軽んじ妻帯肉食する一向宗が嫌悪の対象となっていたことなどが原因と考えられる。 また、島津家による公式の禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されている。これは慶長4年(1599年)日向国において庄内の乱が勃発、この首謀者である伊集院忠真の父・忠棟が熱心な一向宗徒という説があり、乱後に改めて正式に一向宗が禁止されたのはこのことが大いに影響しているものという説がある。 以後両藩に於いては約300年にわたり禁制が続けられた。
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