謀議と逮捕とは? わかりやすく解説

謀議と逮捕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 05:44 UTC 版)

エンリコ・タッツォーリ」の記事における「謀議と逮捕」の解説

タッツォーリは、ジュゼッペ・マッツィーニ宗教観には距離を置いていた。しかしその一方でマッツィーニ結成した青年イタリアこそが、具体的な行動訴えることができるだけ人員組織用意できる唯一の団体だと確信するようになっていた。カトリック博愛精神とその教育方法執心していたタッツォーリは、キリスト教啓蒙原則リソルジメント人道主義的精神民主主義的精神と結びつけ、彼にとって第二宗教ともいうべき「母国への至上の愛」を形作っていったのである1850年11月2日マントヴァ10番街のある家で(現在はジョヴァンニ小径呼ばれているのだが)、20人のマントヴァっ子達が会合開いた。反オーストリアのための叛乱計画のもとになった会合だった。タッツォーリが中心となって謀略参加する者達をまとめた。タッツォーリはマッツィーニ当時ロンドン亡命していた)とも連絡取りマッツィーニ小冊子配布積極的に行ったオーストリア警官達は偶然この小冊子を見つけ、持ち主拷問することで謀議知った。タッツォーリは1852年1月27日逮捕された。多く書類差し押さえられたが、その中には収入と支出暗号記されたものが含まれていた。しかし、そこには金を支払った構成員達の名前も記されていたのである6月24日牢獄入っている最中、タッツォーリは自分ノートの中の暗号、それは彼が使用していた数珠基づいて作成したのだったが、その暗号の鍵がオーストリア人達に解読されたことを知った。そしてマントヴァヴェローナブレシアヴェネツィアから集まった構成員達が逮捕されのだった同年12月7日、タッツォーリはマントヴァベルフィオーレイタリア語版)で仲間4人と共に絞首刑処され翌年にはさらに4人が処刑された。彼らの処刑ヨーゼフ・ラデツキー総督による独立運動の大規模な弾圧の始まりとなり、「ベルフィオーレ殉教者」として記憶されることとなった

※この「謀議と逮捕」の解説は、「エンリコ・タッツォーリ」の解説の一部です。
「謀議と逮捕」を含む「エンリコ・タッツォーリ」の記事については、「エンリコ・タッツォーリ」の概要を参照ください。

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