謀略説に関わるもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)
1949年(昭和24年)7月15日に三鷹駅で大事件が起きるという噂が警察関係で語られていたとの指摘が存在する。暴走電車によって大破した三鷹駅前の交番には4人の警察官が勤務していたが、事件時は交番を留守にしていたため4人全員が助かっていたことなどが傍証としてあげられている。 その他、中野電車区で「今夜、三鷹駅で共産党が大事故を起こす」という噂が流れていたとの証言、事故直後に三鷹駅前の広報放送で、「この事故は、共産党員が関係しているとみられます。(以下略)」との放送が流れたという証言、事故発生直後にヤクザ風の男20から30人の一団が、駅前広場に駆け出てきて、現状保存のため手際よく縄を張って、「これは共産党の仕業だ」と吹聴したという証言、アメリカ軍MPのジープが素早くやって来て、事故現場周辺の人々を「ゲッタウエイ」と追い出したという証言など、いくつかの不可解な動き、特に共産党員の犯行であるかのように印象づける操作が見られたとされる。 1950年(昭和25年)東京地方裁判所の裁判長として判決を下した鈴木忠五は、後年の回想で、三鷹事件について「事件そのものは非常に単純なんです」「あの当時米軍に司法関係の二世がいて、それが共産党をやっつけることに使命を感じ、それの意向が八王子の検察官の間にあったと思うんです」「警察の方は、むしろ共産党だとは思っていなかったのではないか、というフシもありますね」「竹内の目的は、全部の電車を車庫から出られないようにすることで、電車を暴走させることではなかった」のに「どういうはずみか、ポイントが止めてあるのに、そこを突っ切って電車が動きだし、大事故になったわけです。だから、竹内も全然予期していなかったことが起こったわけです。」竹内の妻が「大変な事故で死人が出ているらしいから一緒に見にいこう、といって」家に帰っていた竹内を「無理に引っ張り出しているんですが、途中で、誰かに死者が何人も出たということを聞いて、もう竹内は女房に、『お前、行くなら勝手に行け。オレはそんなの見るのはいやだから帰る』といって帰ってしまっている。その心理状態です」など数々の秘話を明かしている。
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