弾圧と消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 08:55 UTC 版)
東洋社会党の結成が知られると、論壇では賛否両論が行きかった。福地源一郎や村上浩は、西洋の社会党の害毒が日本に及んだとしてはげしく非難した。政府当局は東洋社会党を共産党・虚無党と断定し、1882年7月7日(ないしは6月中に)内務卿山田顕義は結社禁止を命じた。禁止に先立つ7月6日、長崎警察署は樽井を召喚・尋問したが、樽井は「社会党とは親和の党という意味である」、「道義に従えば平等を主張するのは当然であり、この論理は太政官布告にも出てくる」という趣旨の返答をしたという。 結社禁止後も樽井は修正党則の作成などの活動をつづけた。改正党則には「天物共有」「共同社会」「児子共育」「理学的生殖」などの主張が掲げられた。このほか、8月には赤松が、徳川幕府の顛覆を図った由井正雲の彫像を作らせた。 1883年1月、樽井は結社禁止に背いて改正党則草案を印刷・配布した。このこれにより同25日に樽井は集会条例違反で禁固刑に処され、これによって同党は事実上消滅した。
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