弾圧と亡命者の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 18:22 UTC 版)
「ディエヴトゥリーバ」の記事における「弾圧と亡命者の活動」の解説
1940年にソビエト連邦がラトビアを占領すると、ディエヴトゥリーバは弾圧され、散り散りになった。ブラスティンシュは1941年にソ連の強制労働収容所に送られて1942年に処刑され、他の指導者たちもシベリアへ流刑にされたり、西方へ亡命したりした。 ラトビアがソ連に支配されている間、ディエヴトゥリーバは国外の亡命者のコミュニティで細々と存続していた。初期にはドイツやスウェーデンで活動がみられたが、1947年にエルネスツ・ブラスティンシュの兄弟アルヴェードス・ブラスティンシュがアメリカで立ち上げた組織が最大勢力となった。アルヴェードスは自ら大指導者 (Dižvadonis) と名乗り、1985年に死去するまでこの地位にあった。各地の亡命者により枝分かれしていたディエヴトゥリーバ運動は、1971年にイリノイ州に拠点を置くラトヴィアン・チャーチ・ディエヴトゥリのもとに統一された。先立つ1955年にはネブラスカ州リンカーンでラビエティス誌が再刊され、1977年初頭にはウィスコンシン州に宗教集合施設「ディエヴセータ」(Dievsēta、「ディエヴスの屋敷」の意)が建設された。こうした亡命者たちの運動は必ずしも明確に宗教色を出していたわけではなく、より広範にラトビア文化を亡命者の共同体の中で維持し振興する活動となっていた。アルヴェードス・ブラスティンシュの後はヤーニス・パリエプス(1985年–1990年)、マルジェルス・グリーンス(1990年–1995年)、ユリス・クリャヴィンシュ(1995年–2000年)と指導者の座が受け継がれ、2000年以降はパリエプスが再任している(2005年現在)。 ラトビア・ソビエト社会主義共和国では、ディエヴトゥリーバの参加者や関心を寄せる者たちが、婚礼や葬儀の際に運動のシンボルや特徴的な身振りを行うという形で活動を続けていた。1983年にソビエト当局がおこなったディエヴトゥリーバ弾圧の報告書によれば、活動家インツ・ツァーリーティスや詩人グナルス・フレイマニスのように、ディエヴトゥリーバの宗教に興味を持って他と違う環境に身を置くラトビア人が存在していた。ソビエト当局は、ディエヴトゥリーバの参加者をナチズム活動家とみなして摘発した。
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