弾圧にいたる経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 21:17 UTC 版)
1990年台後半から法輪功学習者の数が増え続けたことや、中国共産党幹部にも多数の学習者を抱えていたことなどから、中国政府は法輪功に対する危機感を高めていた。 前述のとおり法輪功は1993年に中国気功科学研究会の直属気功流派に指定されていたが、その後同会は法輪功の宗教色が強まっていると判断し危機感を強める。1996年9月に「李洪志の『法輪功』問題の状況報告について」と題する内部調査報告をまとめた。また同時に、李が仏教の研究に専念し気功の伝授をおこなわないと発言しており、さらに法輪功と関係を絶ったため、法輪功は法人としての義務をもはや果たせず、同会は法輪功との所属関係を解除した、という旨の処理案を提言がなされた。これを受けて同年11月に同会は、李が「気功を伝授する過程の中で神学と迷信を宣伝」していることや、同会の会議を欠席したことを理由とし、法輪功を直属気功流派から除外する決定を下した。またこれに先立って、同年7月に中国中央官庁の新聞出版署は、『転法輪』『中国法輪功』『法輪大法義解』『神通大法』などを違法出版物に指定している。しかしこの時点では、党内に「三不政策」(法輪功については干渉しない・宣伝しない・批判しない)があり、法輪功に対する中国政府の追及は比較的緩いものであったと莫 (1999, pp. 83ー86) は述べている。 1998年に創始者の李洪志はアメリカに移住している。莫 (1999, p. 90) はこれについて、法輪功との全面対立を避けようとする共産党の意向を読み取ってのものか、あるいは身辺の安全のためであると推測している。中国・民衆法廷(英語版)の報告書によると、同年に李嵐清国務院副総理が「法輪功の評判を傷つけ、財政的に崩壊させ、肉体的に破壊」することを求めた江沢民の指令を公表している。 またこのころ法輪功は、自分たちに批判的なマスメディアや政府機関に対して、複数の抗議行動を起こしている。1999年、当局が法輪功の書籍や屋外における気功練習を統制しはじめたことに対して、数十人の学習者は中央政府に陳情を届けた。当局が理由の公表もなく拘束したことから、全国の学習者に、拘束者を解放して欲しいと願い求める声が高まった[出典無効]。全国から集まった1万人以上の法輪功学習者が1999年4月に北京中枢部の陳情受付所に上京した。北京では、どのような陳情者も、列に並んで陳情書を届けなければならないが、人数が多く、警察の交通案内したところ、結果的に中南海をぐるりと巡るように列ができた。この結果論を、官製紙が「中南海は包囲された」などのセンセーショナルな政治運動として取り上げ、大衆のミスリードを導いた[出典無効]。この出来事を契機に、1999年7月20日、当時中国の最高指導者であった江沢民が法輪功学習者への弾圧を開始した。このとき彼は「当時、7千万人以上に及んでいた国内の学習者らが団結し、中国共産党を支持する人数を上回る大規模なグループとして、なんらかの政治的関与を行うのではないかと一方的に憶測し、恐れた」と言われている。
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