弾圧と復興とは? わかりやすく解説

弾圧と復興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:07 UTC 版)

イエズス会」の記事における「弾圧と復興」の解説

ヨーロッパ諸国ナショナリズム強め王権のもとに国をまとめてこうとしたとき、国境越えて自由に活躍し教皇へ忠誠を誓うイエズス会存在目障りなものとなっていた。イエズス会への弾圧18世紀になると急速に進みポルトガルイエズス会員の国外追放決めるとフランススペインナポリ王国両シチリア王国パルマ公国もこれにならった列強教皇クレメンス13世イエズス会禁止するよう圧力をかけたが、教皇頑として聞き入れなかった。だが、イエズス会保護し続けたクレメンス13世急逝し次の教皇としてクレメンス14世着座する圧力はいっそう強まり教皇イエズス会をとるか、ヨーロッパ諸国教皇庁との関係をとるかという究極の選択迫られることになったこのような経緯経て1773年7月クレメンス14世回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール (Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会禁止した。ただロシアにおいて、イエズス会貢献高く評価していたエカテリーナ2世イエズス会禁止回勅発布拒否し教皇も「列強圧力屈しはしたものイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会ロシアにおいて細々存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世自国へのイエズス会士亡命許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系学校の教師として歓迎している。 1814年教皇ピウス7世小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会復興許可された。復興後イエズス会急激な成長遂げたそのこと多く学校19世紀設立されという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28イエズス会大学のうち22はこの時期創立されたか、あるいは他から引き取ったのである弾圧受けたことで、イエズス会の中で正統権威というものに対すこだわり強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対して異論もあるが、概してイエズス会員には教皇へ忠実という意識強く存在し19世紀ウルトラモンタニスム教皇支持派)と呼ばれた人々中に名を連ねたものも多く第1バチカン公会議における教皇不可謬説宣言理論的枠組みつくったものもいた。 スイスでは19世紀起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会禁止決定された。この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止決議されるまで存続した。 20世紀イエズス会にとって発展と衰退両面を示す世紀となったカトリック教会全体趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代ピーク迎え以後ゆるやかに減少していった。会員減少したにもかかわらず関連施設増加し協力者会の会員数増えた20世紀著名なイエズス会員の中には第2バチカン公会議デザイナー」とも呼ばれるジョン・コートニー・マレー(英語版)がおり、彼は同会議文書一つ信教の自由に関する宣言英語版)」の草稿書いたことで知られる

※この「弾圧と復興」の解説は、「イエズス会」の解説の一部です。
「弾圧と復興」を含む「イエズス会」の記事については、「イエズス会」の概要を参照ください。

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