弾圧と抵抗運動の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:08 UTC 版)
「リトアニアの宗教」の記事における「弾圧と抵抗運動の歴史」の解説
その後カトリックはロシア帝国やソ連の支配下で弾圧を受けるようになる。 1831年、多くのリトアニア人がポーランド人とともに11月蜂起に参加し帝政ロシアの体制に反対したが、ツァーリ(ロシア皇帝)はこれを鎮圧し、その後報復としてカトリック教会を弾圧した。ロシアはカトリック教会が所有していた土地を没収し、正教以外の宗教教育を認めず、またカトリック信者を正教会に改宗させるなどした。1863年に1月蜂起が起きた後もロシアによる報復が行われた。数百人の聖職者や信者が投獄され、また処刑された者も少なからずいた。 第一次世界大戦後、リトアニアは独立を果たすが、第二次世界大戦中にソヴィエトがリトアニアに侵攻。1940年にモスクワからの指令によりリトアニア政府内部に「宗教活動を取り締まる監督機関」が設置されると、カウナス大学神学部が哲学部とともに閉鎖され、また、4つあった神学校のうちの3つも閉鎖、残りのカウナス神学校は閉鎖を免れたものの、それでも校舎の4分の1が赤軍に引き渡され、生徒の数も共和国時代の500名から150名に削減されるなどの弾圧を受けた。神学校の学生数はその後さらに25名にまで減らされている。宗教関連の新聞社や団体なども閉鎖に追い込まれた。神父などの聖職者も迫害を受け、1940年から1941年の1年間で15人の神父が処刑、18人が監禁、9人がシベリアへ流刑された。この「監督機関」はその後1991年まで活動を続けている。 ソヴィエト侵攻に伴いリトアニア国内では「森の兄弟」(リトアニア語: miško broliai)と呼ばれる反ソ抵抗運動(パルチザン)が展開され、カトリック教会の聖職者らもそれに参加した。密かにカトリック教会と連絡を取っていたパルチザンの戦士らの壊滅をもくろんだ占領政府は教会の力を利用しようとしたが、教会は協力を拒否。その結果司教らが逮捕・投獄・射殺される例も少なくなかった。 ソ連編入後もカトリック教会は特に地方部で権威とみなされ続けていたため、共産党当局はこれを服従させようとしたもののうまくいかず、ここでも司教らが逮捕されるにいたっている。当時の様子をチェパイティスは次のように描写している。 リトアニア人司教や多くの神父が逮捕された。ヴィンセンタス・ボルセヴィチウス司教はヴィルニュスのKGB監獄で拷問のあげく、射殺され、メチスロヴァス・レイニス大司教はロシアのウラジミール監獄で死去、2人の司教は国外追放となった。362人の神父たちは逮捕され射殺されるか、国外追放された。多くの神父がソビエト当局から教会で働く許可を受け取れなかった。リトアニアの独立時代にくらべて神父の数はかなり減少した(1939年は2083名、1953年は734名)。多くの教会が閉鎖された。
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